働くこと――日本人と欧米人の違い

拙著『出光佐三の日本人にかえれ』(あさ出版/2013年)第三章の「働くこと――日本人と欧米人の違い」冒頭部につき、先月「子育ちを見守るもの」というブログで「とても感銘を受けた」として再掲されていました。本ブログでは該当箇所を含め、以下ご紹介致しておきます。

ちなみに、出光佐三と言っても今の若い人達の殆どは御存知ないかもしれませんが、出光さんは出光興産株式会社の創業者で、戦前・戦中・戦後と大変な偉業を成し遂げた我々が世界に誇るべき事業家です。

【「和」の精神と「権利」の思想】

人のやる気、モチベーションは、金銭だけでは上がりません。また、どんなに規則や罰則を設けて厳しく管理しても、それで人のモチベーションは下がることはあっても、上がることはありません。

モチベーションは基本的には外的に人に与えられるものではなく、結局本人が「やりたい」と思うことをやらす以外に上がることはないのです。会社としてすべきは、社員のやる気を引き出すように環境を整えることです。

また、出光さんは、人が集団生活をしていれば助け合うのが当然なように、働く上でも自然に助け合うことの大切さを説かれました。

そしてそれは人間の本来の姿でありながら、「権利」という思想がしみついている外国人にはできないことであるとおっしゃっています。

「和」の精神を持ち合わせる日本人だからこそできることだ、というお考えです。

このあたりの議論は、欧米人に聞かせればどう反応するかなと私としては若干案じながら、出光さんのご意見を拝読しました。私は西欧の権利思想や個人主義というものは、その民族性に由来するもので、よいとか悪いといった形で評価すべきものでないと考えています。

あまりの日本人礼讃は一種の偏見とも言えるものであり、日本人が世界的使命を果たす上で障害とも成り得るのです。この節の私の解説箇所では、少し詳しく私の考えを記しておきます。まず、出光さんのお考えを見てみましょう。

人間の真に働く姿が出光くらい表れているところはない。そしてこの出光のあり方は日本のみでなく世界に表れている。出光は世界的になっているということだ。

たとえば、こういうことがあった。ある大学教授がハーバード大学に行っていたが、いろいろ研究してみて、アメリカの経営は行き詰まっている、アメリカは給料を上げたり地位を与えたり組織をつくったり管理を厳密にしたりして、いわゆる金や組織や管理によって能率を上げることをしてきたが、そのやり方はもう行き詰まったという結論になったらしい。

そこへ偶然、僕の書いた『人間尊重五十年』という本を読んで「これがアメリカの経営の行き詰まりに解決を与えるものである」と感じ、帰国して、僕のところへ来て、いろいろ出光のあり方を聞いてきた。そして「アメリカの探しているものは、これですよ」と言った。

日本の二〇社ぐらいの大会社の社長クラスの人がアメリカへ経営の研究に行ったとき、帰国後の報告によると「アメリカの経営は行き詰まっている。そして今では、従業員が自発的に能率を上げる以外には、能率を上げる方法はないということをアメリカの経営者や経営学者が言い出した」そうだ。

従業員が自発的に能率を上げる、これはまさしく出光のあり方である。出光では社員は独立して働いているので、各々が自発的に能率を上げなければいけない。給料を上げたり、地位を与えたり、組織をつくったり、管理を厳格にしたりすることでは、能率は上がらない。

世界はそういうものを度外視して、従業員が自発的に能率を上げる以外にはないと言い出している。個人主義で自分だけよければいいと言っている外国人に、そんなことができるだろうか。できはしない。これは日本人であるがゆえに、出光みたいにすることができるのだ。≫

【易学の二元論で考える】

日本人と欧米人の仕事観につながる東西文化の違いを理解する上で、中国古典、とりわけ易学の二元論、すなわち陰陽相対原理を用いると理解しやすいと思います。

西洋文化は極めて陽的な文化です。「知の働き」は陽の原理に、「情の働き」は陰の原理に即していると考えられています。

ですから西洋文化は理知的で、才能本位で、功利的です。これに対して東洋文化は情意的であり、徳操(常に道徳を守る堅い節操)的であり、はるかに内面的精神的な特徴を有しています。こうしたことは、東西両文化の諸相を対比してみると明らかです。

そもそも陽原理の働きは、分化発現の働きでありますから、その特徴に従って西洋民族性はどうしても個人主義的、主我的になります。そこで精神の当然の発展として権利観念、平等観念というものが生じます。また正しく発展すると各人各個の自覚が明瞭になります。

ですからこの原理は時として排他主義や無秩序破壊につながるのです。たとえば、労資の対立です。労働者は労働者としての自覚を持ち、協同で労働組合を組織化します。そして経営側と相対して労働条件について交渉し、決裂すればストライキやサボタージュといった行動に出るわけです。

では東洋民族性はどうかというと陰原理を本領としていますから、分化発現したものを結んで内に貯えていく統一含蓄する働きの作用を受けます。少しでもこれを摂理する根源の大生命に帰一して生きようとするといった面が出て、きわめて没我的な様相を呈します。

先ほどの例では、日本では労働組合も企業別組合というのが主流です。要はほとんどの組合がいわゆる御用組合で、労働争議などめったに起こらないのです。経営側も労働者側も会社のため一筋に没我的に働きます。

このような東洋民族性の没我的な傾向は、東洋の中にあっても、とりわけ日本精神にあって最も純一無雑なものとして結実していると思います。「己を忘れ、己を投げうって、ある偉大なるものを奉じ、これに生きてゆこう」とするのが、東洋精神文化が日本で純化した結果として生まれてきたのです。

易学の陰陽二元論は上記したように他との関係・比較の上で成り立つ相対的原理です。男女の場合は、男が陽、女が陰ですが、この両性が一つになって家庭ができ、子孫ができ、という具合に人類の存続、繁栄に導かれるのです。

陰陽はどちらが優れているというのではなく、陰陽が一になり初めて「全(まった)き(完全で欠けたところのないこと)」が得られます。

東西文化についても同じで、相手が有する陰・陽の特性が融合されて「全き」が得られ、いっそうの飛躍に向けて人類は進むことができるのです。

二十世紀は西洋文明偏重でした。二十一世紀は、東西融合の世紀にしたいものです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。