日本の新型コロナ対策が迷走している。オリンピック問題に飛び火し、今や世界に日本の迷走を強烈にアピールしてしまっている。残念なことだ。
私は、国際政治学者だが、というか国際政治学者だったからこそ、新型コロナ危機の国際的な衝撃を知りたいと思い、昨年は、ブログ記事を書く機会などを通じて、自分なりの理解の整理を行ったりしていた。
その際、私が繰り返し書いていたのは、「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」をはっきりさせ、「長所を伸ばし、短所を補う」戦略を構築すべきだ、ということだった。
新型コロナのような巨大な問題では、数多くの人々のイデオロギーや名誉欲だけでなく、巨大利権や社会権力構造が関わる問題として本質が見えなくなりがちだ。「戦略」的視点をとることが、非常に難しい。繰り返し「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」を確認して精査し、その分析に見合った政策をとらないと、いずれ瓦解していく。
私が「日本モデル」として称賛していたのは、尾身茂・分科会会長や押谷仁・東北大教授らのリーダーシップであった。残念ながら、今は、あるいは菅政権になってからは、彼らも旧来のエスタブリシュメント層によって、利用価値だけが計算されているような状態に陥ってしまった。
短所がますます拡大し、長所がますます縮小している。日本の短所である「ビジョンのあるリーダーシップの欠如」が悪化の一途をたどり、長所である「平均値の高い国民の能力」が疲弊しきっている。
日本では、政治家が官僚に、官僚機構が末端組織や下請けに、「上手くやれ」、とだけ言い、矛盾を下に抱えさせて、問題を処理していくやり方が、得意だ。リーダーシップ層では閉鎖的な人事体系の中で目先のリスク回避優先の組織防衛が先走るので、どうしても目に見えない忖度文化の権力関係を活用して平均値が高い現場の国民の能力で問題を改善させる方法に頼りがちになる。
たとえば、日本の医療システムを抜本的に改革するというのは、大変な作業だ。危機が訪れたとき、日本の医療で対応できる限界を計算し、国民の努力でも補う作戦を考えるのは、合理的であった。だがいつまでも改善もせず、国民の負荷を継続して高め続けることによって、何年もの間やっていこうというのは、あまりに持続可能性がない。
ワクチン普及についても、場当たり的で、状況に合致したシステムの構築は、全く看過されている。その一方で、地方自治体への負荷を高め続け、現場の努力を最大限以上に引き出すことによって成果としていこうとする短距離走型のやり方は、いずれ行き詰る。
金融機関に忖度をさせて飲食店を締め上げようとした通産(経産)官僚出身の西村康稔大臣の発言が炎上したが、西村大臣を支援していた官僚群は、「いつもやっているやり方なのだが・・・」という気持ちしか持っていないだろう。上には迷惑をかけず、下に負荷をかけ続け、下請けに全てを飲み込ませ、決して目立たせることなく、問題の言語化はできるだけ避けて、問題を処理していくのが、日本の正しい官僚の道というものだ。ただ危機の状況では、それが可視化されてしまうので、異常さを一般国民から指摘されてしまう。
言うまでもなく、高度経済成長期の全てがキャッチアップで動いていた時代であれば、従来のやり方にも相対的に意味があった。しかし、今は、社会を停滞させる癌のような精神文化でしかない。
一回目の緊急事態宣言が終わったちょうど一年前ほど前、社会の改革を促す機運があった。その中で、飲食店については、財政支援という明快ではあるが天井がある措置に加えて、デリバリー営業や、路上営業の促進を目指した政策の導入が謳われていた。「ウィズコロナ」という掛け声を、具体的な政策で考えている欧州諸国では、この一年で飛躍的にデリバリー業界が伸びた。飲食店の営業も、室内は引き続き閉鎖しながら、屋外部分のみで営業しているやり方も一般的だ。もともとの文化が違うと言ってしまえばそれまでだが、日本でも、一年前は、確かに路上を飲食店営業に提供していくための措置の必要性が語られていた。
そのような変化は、一年後の日本のどこにも見られない。皆、一年前の議論など、忘れてしまった。というか、忘れさせられてしまった。
むしろ路上で飲むのは「抜け駆け」なので取り締まろう、という自粛警察の敷衍化だけに頼る考え方だけが進み続けた。新型コロナの大きな特徴は「エアロゾル感染」だという押谷教授の世界に先駆けた発見は、むしろ欧州諸国のほうで応用が進んだ。日本では「三密なんて甘い!」といった綱紀粛正だけに突破口を求める人々によって、封印が果たされた。そして、「路上営業の拡大なんて、面倒な制度改革が沢山あるじゃないか、それより金融業者に忖度させ、飲食業者にさらにいっそう忖度させた方がいい」、という「常識」を、「常識」として思い出し、受け入れることを強いられることになった。
新型コロナだけの話ではない。オリンピックがあまりにも電通を中心に回っている、という批判がなされている。ミャンマーに対する「人権外交」の是非を問うと言っても、結局は年間数千億円の円借款の契約者として名を連ねている大企業群やその背景のフィクサーの保護こそが、最大の論点になる。
「護送船団」方式は、キャッチアップが全てだった高度経済成長期のやり方だよ、ということは誰でもわかっているはずだ。だが、不可視の忖度で結ばれあった政財官のエスタブリシュメント層の鋼鉄の人事システムの中では、長期的なビジョンにもとづくリーダーシップを期待するのは、無理なのだろう。
新型コロナにおける「日本モデル」は、日本社会のあり方にメスを入れるための良い機会だった。その機会が失われたまま混乱だけが広がっているのは、残念である。