昭和の発想とジェネレーションZ

本や雑誌などで賢人の歩みをつづったものは未だに根強い人気があるようで、メディアのコラムなどでも必ず取り込んでいるものです。ここでいう賢人とは年齢的にリタイアした層が現役時代に取り組んだ仕事ぶりを通じてあるべき論を述べるわけで我々昭和世代にとってはすーっと落ちる話が多いものです。

Alessandro Biascioli/Istock

更に故人になってしまった日本の代表的企業を立ち上げた方々のお言葉には含蓄があり、松下幸之助、本田宗一郎氏らの著書は書店に行けば必ずあるし、ご存命の稲盛和夫氏絡みの書籍は一体どれぐらいあるのか、見当もつかないほどであります。

過去に学ぶというスタイルは今日に始まったことではなく、江戸時代の寺子屋でもそうでしたし、吉田松陰や上杉鷹山は今日ですら研究されています。

これらは学ぶというスタイルが2種類あり、いわゆる技術や知識を直接的に取得する学びと生き方や考え方を学ぶことがあります。上記の学びは後者に当たります。

ところが私はここにきてその学びスタイルが崩れつつあるのではないか、という危惧があります。まず、若い方々が本を読まなくなりました。理由は時間がないと言ってしまえばそれまでなのですが、それよりも3-400ページある書籍を読む根気がないのです。ましてや内容が頭にしっかり収まってくれるような読み方ができる人は少なくなったと思います。理由は読書する癖がないこと、もう一つは賢人に学ぶという理由がわからないのです。

ジェネレーションZ、多少定義の枠組みはばらつきがあるようですが、私の認識は90年代中盤から現在に至るまでの世代でしょうか?やや広めにとったとしても現在30歳ぐらいまでの方ということになります。この方々の背景は産まれたときからコンピューターに支配されてきた世代だということです。悪く言えば0と1の白黒はっきりした感性を持ち合わせ、結論を急ぎ、発想が短絡的になる傾向があると思います。

この世代の方々に昭和の賢人の話をしても響かないのだろうな、と思っています。つまり、昭和の話をして喜ぶのは昭和の人だけではないか、という仮説を立てています。平成の人は一部の人が「聞いたことがある」といった程度で自らがそれを掘り下げることはないのだろうと思っています。

これは何を意味するかと言えば若い世代にあるのは常に成功か、失敗かの二者択一であり、敗者はゲームオーバーであり、再挑戦をするかどうか、といったデジタル感覚で物事を見ているかもしれません。

そんな世代には株式や暗号資産への投資は結果がすぐに明白に出る点においてぴったりくるわけでのめり込む若者が続出するわけです。あるいはユーチューバーになるというのも登録者数や再生回数という数字が全てでその比較があらゆる会話のシーンで出てくるのです。若い方と話をすれば必ずと言ってよいほど数字ベースの成否で「あの人はすごい」という判断を下していないでしょうか?

この数字の話は実はコロナに対する理解にも影響しています。数字の裏側を探るとかその数字は正しいのか、という検証能力がないため出てきたものを鵜のみし、それをSNSで拡散し、即座にその判断を下すのです。これは実に短絡的である、としか言いようがありません。

こんな話をすると「じゃあ、結論は」と先を急がされるのが関の山。これでは昭和生まれは昭和のグループで集まっていたくなるのも当然です。完全な世代間ギャップです。20年すると令和産まれが社会に出てきます。その時、昭和生まれと令和産まれの間に挟まれた平成生まれがその潤滑剤になる、といった記事が日経あたりで掲載されてもおかしくないでしょう。

世代間ギャップが出来て当然なのか、人々の知識は仕事に直接的なものだけでよいのか、と考えると私は先々恐ろしいものを感じます。世の中、DX時代になっていますが、アナログで本来、人間がもつ能力をきちんと引き出す努力をしないと末恐ろしい社会が到来するのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年7月11日の記事より転載させていただきました。