日本フィル×沖澤のどか

沖澤のどかさんが振る日フィル定期の二日目。コンサート・マスターは千葉清加さん。一曲目のモーツァルト『魔笛』の序曲から、初夏の清々しい薫りがした。オペラの『魔笛』は特に初夏の物語ではないが、プログラム後半のメンデルスゾーンの響きを先取りしているような清冽なタッチがあり、その透明感から「夏の夜の夢」に似た妖精世界の物語を連想したのだ。日本フィルはとてもシックで幻想的な音を出し、いつもの力強いイメージとは別のオケのようだった。終盤でドラマティックなクレシェンドがあったが、おおむね弱音の美しさを強調した指揮で、沖澤さんの曲に対する強い理念を感じずにはいられなかった。

ⒸTaira Nishimaki

男女の性差についてデリケートな世の中になったとはいえ、指揮者の世界ではまだ女性は少ない。それでも、この半月間に複数の女性の指揮者の演奏を聴いた。牧阿佐美バレエ団と藤原歌劇団のピットでも若い女性の指揮者が活躍していた。沖澤さんの『魔笛』序曲は、若い男性指揮者ならもっと「元気よく」振ったかもしれないものを、吟味されたバランス感覚で限界まで音量を抑えていた。勢いで聴かせては表せないものを表すために、音量やパンチはセーブする。弦セクションのまめまめしい活躍が妖精の羽音のようで、やはり『夏の夜の夢』を思い出してしまった。

ベルク『ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》』では三浦文彰さんがソリストとして登場。何かのきっかけで最近ベルク・アレルギーになっていたのでこの曲も憂鬱に聴くだろうな(!)と思っていたが、心は窮屈な場所とは別の世界へ持っていかれた。アルマ・マーラーとヴァルター・グロピウスの娘マノン・グロピウスの早すぎる死を追悼するために書かれた曲で、完成後まもなく作曲家は亡くなってしまうが、既にベルクの精神はこの世ではないところに足を踏み入れているようだった。曲の構造は隙がなく、知的に聴こうとすると頭が過熱するが、それとは別の癒しの美があった。沖澤さんの指揮は武満徹の星をテーマにしたチャーミングな曲を思わせ、三浦さんのソロは譜面から暗号を読み取るような神秘的な均質性があった。「現実的」に演奏したら、ひどく晦渋な音楽になるところを、違う次元で聴かせてもらったという感想。オケがところどころ和楽器の合奏のように聴こえたのも興味深かった。

沖澤さんが東京国際音楽コンクールの指揮部門で優勝された瞬間は素晴らしいものだった。ファイナリスト4人はそれぞれ高い実力を持ち、しのぎを削る戦いだったが、大きな流れが到来して「沖澤さん以外にはない」という想いが高まった。結果発表のときには「やはり、そうか!」と感動で思わず泣いてしまった。その後2回ほど沖澤さんにはインタビューした。「なぜ自分が優勝したと思うか」という不躾な質問もしたが、そのときの沖澤さんの答えはとても実感がこもっていた。「他のコンクールで既に好成績を収めていたコンテスタントも多く、彼らはオーケストラととても合理的に段取りを進めていました。私はこつこつ型で、要領が悪かったので逆に目立っていたのかも知れません」
日本フィルとの演奏を聴いて納得。派手に「とりあえずの完成品を作る」という短気なところがない。外側だけを性急に整えるという嫌らしさもない。「どうだ、すごいだろう」という圧倒する演奏は、器楽声楽のコンクールなら高く評価されることもあるのかも知れない。沖澤さんを高く評価した審査員の知性に感謝したくなった。

音楽も芸術も学習の賜物であることは歴然としている。どれだけ知識があるか、分析力があるか。沖澤さんの知性が素晴らしいのは、その先の未踏の部分にも踏み込んでいることで、それは作曲家の知性の奥にある、より根源的な「魂」を表すことを試みていることだ。知性は嘘をつく。戦いのために華やかであろうとする意匠は、外側の世界に合わせた化粧のようなもので、簡単に時代遅れになる。何と闘うのか。コンクールでの沖澤さんは、ただ自分の探求心のありようを純粋に見せていた。音楽を聴けば、どんなに繊細な人かはすぐに分かる。指揮者という道を選んだ時点で、古い戦いのスタイルとは別のやり方を選ばれていたのではないかと思う。

古い戦いとは、どのジャンルでもやはり威圧的に「凄い」と思わせようとする戦いで、クラシックの多くの聴衆はまだまだそういう戦いが好きだ。沖澤さんは狭くて厳しい道を選び、自分を曲げずに頑固に磨いていると思う。メンデルスゾーン『交響曲第3番《スコットランド》』は、冒頭から素晴らしい音色の嵐で、膨大な音の色彩が混濁せず調和的に配置され、水彩画家としてのメンデルスゾーンの才気が溢れ出した。指揮コンクールでも『静かな海と楽しい航海』を一番メンデルスゾーンらしく振ったのは沖澤さんだった。

『スコットランド』では、今まで感じたことのない感興にも襲われた「メンデルスゾーンはこんなにも優しい人だったのか」という驚きで、女性といるときはドアノブを触らせないほどの紳士だったに違いないと思われた。精神に、憧れずにはいられない「豊かさ」があり、獲物をがつがつ求めていくような戦闘性がない。軍神マルスの音楽ではなく、金星の女神ヴィーナスの音楽で、永遠の平和へとつながる光の階段が見えるようだった。打楽器が激しく鳴るくだりは突然の風雨のようで、厚い雲のスケッチがハーフトーンを重ねた灰色で描写された。作曲家のネガティブキャンペーンを行ったワーグナーはメンデルスゾーンに本当に嫉妬していたのだ。

沖澤さんの指揮姿もとても優美だ。乱暴に「それらしい完成品」をでっちあげたりしないので、音楽に未来がある。不器用とも言えるが、その先にあるものは既に姿を現している。日フィルの木管奏者は献身的で、クラリネット首席の息の長さは驚異的だった。

譜面から『魂』をすくい出すなんて、オカルトか錬金術だと思うだろうか…指揮者自身はそういう言葉で表現をしないだろうが、左脳的な理知や古い戦闘心では顕せない、作曲家の「宿命」が伝わってきた。「これが受けなかったから、あれを試してみる」というようなやり方では、音楽は出来ない。なんだってそんなやり方では本当のことから遠ざかるばかりだ。孔雀の羽根をひろって派手なふりをするイソップ童話のカラスは、偽物だ。その表現の真意はどこにあるか。自分で自分をしっかり認めている指揮者の不動の構えを聴いた、驚異的なコンサートだった。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年7月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。