「ロックダウン条例」が議論できない都道府県知事とは何者か

多少、地方自治に関心がある者ならば地方では公安条例、迷惑防止条例、暴走族追放条例、路上喫煙禁止条例といった人権、特に集会の自由との関係で「際どい」条例が制定されていることに気づく。

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こうした条例があまりに騒がれないのは良くも悪くも規制対象が地方に限定されているからだろう。法律で集会の自由を制約しようとすれば大変な反響を招くことは容易に想像がつく。法律は基本的に「全国区」だからだ。

もちろん東京一極集中の現実を考えれば東京都が制定する条例は「規制地域は限定されている」と消極的に受け止めるわけにはいかないが、それでもやはり「全国区」ではない。

筆者はこうした「規制の現実」を踏まえて新型コロナ感染症対策が議論されていないことに違和感を覚える。

最近、全国知事会は国に対して「ロックダウン」の検討を求めたがなぜ彼らは「ロックダウン条例」を制定しないのだろうか。その議論の気配さえない。

巷で話題になっている「路上飲み」など条例での規制ならば世論の反発も小さいのではないか。反発が起きても冒頭の条例を挙げれば世論も消極的ながらも受け入れるのではないか。「もう同種の条例があります。」と都道府県知事が説明すれば良いだけではないか。

全国知事会は他人事のように振る舞うが国がロックダウンとやらを行使した場合、自治体職員は動員されないと思っているのだろうか。動員されるに決まっているではないか。国が行使するロックダウンとは地方自治体を介して、即ち国→都道府県→市町村の経路で国民(住民)に到達するのである。

国がロックダウンとやらを行使しても結局、現場で動くのは自治体職員である。

だったら自治体が率先して「ロックダウン条例」を制定したほうが良い。その方が地域の実情に即した実際的な対応ができる。これは単に実務的な観点から言うのではない。

改憲もせず国が「ロックダウン法」のようなものを制定することは好ましいことではない。現行憲法でロックダウンを正当化できる根拠は「公共の福祉」しかない。もっと言えば「公共の福祉」を大日本帝国憲法の「法律の範囲内」の次元まで拡大解釈するしかない。

国によるロックダウンとは「日本国憲法の大日本帝国憲法化」に他ならない。

国によるロックダウンとはそれほど重大な意味があるのだ。

だから都道府県知事はもっと政治的リスクをとるべきである。「ロックダウン条例」が議論できない都道府県知事とは何者か。知事の強大な権限はパフォーマンス用ではないはずだ。