新型コロナ対策で必要な「公正さ」

篠田 英朗

前回の記事で書いたように、東京都の新規陽性者数の拡大は鈍化が続いており、実効再生産数も下がり続けている。

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全国レベルの実効再生産も下がり始めている。入院患者の絶対数が多くなっているのは確かだが、普通であれば、下がり始めたことの評価があってもいいと思うが、それはほとんどタブーのようになっている。「気が緩む」せいであるらしい。私のように10日前から増加率の鈍化にふれてほしいと言っていたような人物は、ほとんど非国民のようで、肩身が狭い。

相変わらず、残念な風潮である。

日本人は、人を褒めない。誰からも褒められなくてもコツコツと働くのが、日本人の美徳とされる。しかし、いつも必ずそれだけでいい、というわけではない。

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子どもの教育でも、もっと褒めることをしたほうがいい、という認識は広がっている。大人も一緒だ。

「気の緩み」を断罪し続けるアプローチだけでなく、もっと頑張っている人を褒めるアプローチがあってもいい。頑張っている人がいるから、成果が出ている。そのことに対する社会的な認知が低いのではないか。負担を受け止めながら頑張っている人たちを、もっと評価する方法について、考えを及ばせるべきではないか。

私は一年半前からそう言い続けているが、もちろん社会の風潮を変えることはできないので、諦めてはいる。だが、果たして日本はこのままでやっていけるのか、という不安感は高まる一方だ。

新型コロナ対策の負担は、社会の特定層に歪な形でのしかかっている。旅行業界や飲食店の負担は、まさに「災害時」の様相だ。

世代間の負担の不公平も甚大だ。高齢者を守るために若者が犠牲になっている構図が続いている。これは直近の負担だけでなく、国家財政を通じた負担という面でも、そうだ。

これに対して、医療体制の充実が芳しくないことへの不満が高まっている。欧米諸国では、医療従事者への感謝を表現する気運が非常に高まったが、日本では逆の雰囲気だ。高齢者よりも先に医療従事者へのワクチン接種が優先的に進められた。ところがほとんど医療従事者は新型コロナ対策に従事していない。ただしもちろんこれは、医療従事者の人間性の問題ではない。システムが硬直化しすぎている。医療体制のひっ迫と言っても、医療施設が災害時対応のモードに切り替わっていないことは、一年半にわたって議論され続けてきたことなのだ。だが繰り返されるのは、「気の緩み」をさらに断罪し、対処療法を強めて継続させていく方法だけだ。

今まで負担を引き受けてきた人々への負担をさらに強める内容しか持たない新型コロナ対策は、もう危険水域に入っている。

ロックダウンを要望する世論が強まっている。これは単に強力な対策を打つべきだ、という気持ちからだけではなく、負担を公平に配分する形で「公正な」新型コロナ対策を行うべきだ、という気持ちが人々の間に根強く存在しているからでもあると思う。

現在の緊急事態宣言の対策が忌み嫌われているのは、「公正さ」が足りないからだ。平時の医療体制を維持することを大前提にして、特定業者に負担が偏る「自粛」によって事態を乗り切ろうとすることの「公正さ」が問われている。

冷戦時代の日本は、一億総中流社会と言われた。日本は、実質的な平等が確保された社会だ、という観念が国民の間にも広がっていた。しかし今は違う。

経済的「格差」の拡大が指摘されて久しい。逼迫した国家財政の中で、利益団体の影響力に応じた資源配分の歪さも恒常的な社会問題となっている。超高齢化社会における世代間の不平等も構造的な問題だ。新型コロナは、これらの社会の「不公正さ」の問題の全てを、深刻に悪化させ続けている。
「公正さ」の観点を軽視した新型コロナ対策は、日本社会全体の停滞を加速させる。われわれが対応しなければならないのは、目の前の感染症の問題であって、それだけではない。対処療法ではない新型コロナ政策は、「公正さ」をどれだけ確保できるか、にかかっている。