重職の務めを果たす

私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、『東洋宰相学』の中で「リーダーとなるべき者が読んで実行すべきものとして」、佐藤一斎の『重職心得箇条』を推奨されています。上には上の役目があるというわけですが、その第八条に「重役たる者は忙しいということを口にしてはいけない」云云と次のように書かれています。

――重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり、随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。

大臣や経営者等々の重職とりわけ日々ディシジョンに迫られる人間は、余りに忙しい中ではその務めは果たし得ません。「度量の大たること肝要なり。人を任用できぬが故に多事となる」ということで、細かな事柄を部下に「任用…任せて用いる」「信用…信じて任せて用いる」出来ぬ場合、トップは大戦略を描く時間がなくなってしまいます。あるいは、組織というのは上が枝葉末節にまで関与するとなると、却って治まり難くもなるものです。

重役たる者、常に自分の私利私欲の類を度外視し全責任を背負って、連続する環境変化の下ディシジョンメイキングをして行かねばなりません。本当に大きなディシジョンメイキングを英断するのが、トップというものです。その自分本来の職責を様々な有限性の中で如何に果たすかという観点からも、「随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば」駄目だと思います。

」という字は、「心」を表す「忄」偏に「亡」と書きます。つまり心が亡(ほろ)ぶということです。「忙殺」という言葉もありますが、「殺」は程度を示しますので「多忙なこと」という意味になります。忙しいが故心を亡(な)くす方に向かっている人は、往往に肝心(腎)要の大事が抜け落ちた誤ったディシジョンを下しがちです。重職にはやはり、ある程度の心の余裕というものが必要だと思います。だからこそ、どれだけ多忙でも静寂に心休め瞑想に耽るような「」を自分で見出すことが重要なのです。

」とは門構えに「木」と書くように、ある家の門を開けて入った先に木立があり、静かで落ち着いた雰囲気がある様を指します。つまり「閑」には「静」という意味があります。そして、そこに居れば都会の喧騒や色々な煩わしさを防ぐことが出来ます。ですから「閑」には「防ぐ」という意味もあります。勿論、「暇(ひま)」という意味もあります。

多忙な中「閑」を見出せば心の余裕というものが出来て、様々事が起こった時対応し得る胆力を養っても行けるでしょうし、また色々なアイデアが湧いてき易くもなるでしょう。自分の心を一遍無にして静かな境地の中で、ふっと思うということが大事だと思います。これ正に「寧静致遠:ねいせいちえん…落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」(諸葛孔明)ということであります。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年8月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。