アフガンに米軍が残した武器と先の大戦の米武器貸与法 <下>

ホワイトらが主張した国民党政府の汚職体質は事実だった。が、最も生産性の高い東北部を日本に占領されていた中国が金融改革を必要としていたとするホワイトらの話は言い訳で、実は彼らは別のアジェンダ(ソ連のスパイ行為)を持っていた。

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その一つは戦後体制構築のためのソ連への借款だ。45年1月、ソ連は米国に年利2.25%で30年間返済の条件で60億ドルの借款を求めた。1週間後、ホワイト次官はルーズベルトが更に寛大な条件:年利2%の35年返済で100億ドル、をスターリンに申し出るようモーゲンソー長官に促した。

ソ連借款に関する政府内の議論は高度に機微で秘密にされていたが、ホワイトはこの中心人物。45年1月の暗号通信の何通かにはこの借款提案を含むホワイトからの情報がある。だが結局、ルーズベルトもスティティニアスの国務省もこの借款に反対し、ホワイトの意見は却下された。

そこでソ連への武器貸与のことになる。「Venona」に拠れば、42年初めナチス・ドイツとその同盟国に対抗して英米と軍事同盟を形成していたソ連は、米国の武器貸与の英国に次ぐ受け手になり、最終的に90億ドル以上(実際は110億ドル)を受け取った。

米国はソ連に対し、貸与を容易にするための外交部職員の増員と特別部門の設立を求めた。何千人ものソ連軍将校や技師ら米国に入り、何が貸与され、どんな機械、武器、車両(40万台近いトラックがソ連に向かった)、航空機や軍需品がソ連の戦争に役立つかを調査した。

ソ連は、これらを操作し維持するために訓練し、マニュアルを露語に翻訳し、オーダーされた物品が適正に積み込まれ、適切な船で発送されことを確実にするために検査せねばならなかった。多くのソ連海軍乗組員が貨物船を引き継ぐために到着した。

この話を見れば、車両や火器などは別として、こと航空機の操縦や維持管理に関してはペンタゴン広報官のいう様に一朝一夕にはいかないと知れる。

米国に到着した数千人のソ連人にはKGBやGRUやNaval GRUの諜報将校が多数いた。彼らの任務の一つは米国に対するスパイ活動であり、他はソ連の商業船員の政治的不満分子と潜在的離反者の兆候を見張ることだった。

ソ連の暗号「one time pad」の解読書は1回の使い捨てだが、面倒がって使い回された結果、解読された。その契機の一つが、武器貸与の受取を監督していたソ連購買委員会の貿易機関「Amtorg」の米拠点とモスクワの交信だった。それだけ情報が膨大だった。

ソ連は、在米公館は勿論のこと「Amtorg」などの機関や雑誌社などもスパイの隠れ蓑(cover)にした。先ごろ米国がヒューストンの中国公館をスパイの疑いで閉鎖し、報道機関などを中国の代理人に指定したが、北京のやり口はこの頃のモスクワのそれと寸分違わないようだ。

44年4月にカナダのソ連大使館から膨大な秘密書類を服の下に隠して亡命したクラフチェンコも、43年に武器貸与に係るソ連購入委員会の一員として米国に来た。

スパイの隠れ蓑でもあるソ連購入委員会は、例えばソ連に発送する前の飛行機を検査するためバッファローのBell Aircraftの工場に航空機検査官としてKGB将校のシェフチェンコを配置した。彼は42年半ばから46年初めまでP-39などの情報を流した。

離反したクラフチェンコはモスクワとCPUSAの激しい攻撃に晒されたが、ソ連をテロと抑圧の社会として激しく告発する「私は自由を選んだ」を46年に出版した。ソ連による武器貸与支援悪用を暴露した原稿を、熱烈な反ソ連ジャーナリストのアイザック・レバインに見せもした。

レバインはアルジャー・ヒスを告発した元ソ連スパイのウィタカー・チェンバースを39年9月にルーズベルト政権の安全保障部長アドルフ・バールに引き合わせた人物だ。ヤルタとポツダムを裏で操ったヒスと先述のホワイトに並ぶ政権高官スパイにラクリン・カリーがいる。

カリーは政府職員としてホワイトと机を並べた後、連邦準備委員会に移り、39年に大統領上級補佐官に抜擢された。42年に経済派遣団団長として国民党政府に派遣され、翌年からは対外経済本部(武器貸与本部の戦時経済省と他の戦時機関が合併)の副本部長として組織を率いた。

この様にルーズベルト政権にはソ連スパイと特定された高官が、特に財務省を中心に数多くいて、ソ連と中国に武器貸与を割り付けた。当時の中国国民党には、西安事件に見るように何度か国共合作し、コミンテルンの意向が強く働いた時期があった。

米軍と戦時産業生産組織に仮名でしか判らないKGBとGRUのスパイが約20人いたと「Venona」にある。KGBでは、Iceberg(米航空機の移動情報提供)、Liza(陸軍幹部)、Nelly(武器貸与本部情報を報告)、Staff-Man(価値ある米軍スパイ)、Tur(米軍の対仏侵攻計画情報の提供)、GRUではDonald(米海軍艦長)、Farley(戦争生産本部と陸軍の情報提供)などだ。

さて、武器貸与法で貸与された約500億ドルは、須藤論考の表題が「武器貸与法とその清算-戦後アメリカの経済援助の起点として-」であるように、それを帳消しにすることがブレトン・ウッズ体制の基盤の一つになった側面があるというのが須藤教授の論だ。

ブレトン・ウッズ体制とは、大戦末期の44年7月、米英を中心に米国ブレトン・ウッズで開いた連合国会議で締結された協定に基づく国際通貨体制で、戦後の通貨安定のための金ドル本位制度と固定為替相場制が決められた。

45ヵ国が参加した会議では、貿易振興や発展途上国開発などを討議し、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(世界銀行)、国際貿易機構などが設立された。実はこの時、米国を代表して英国のケインズと渡り合ったのが先述のハリー・ホワイトだった。

ホワイトはインフレに対する警戒感から為替安定基金を主張、ケインズは戦後の過渡期を乗り切るためには大規模援助やポンドの交換性を回復する準備期間が必要とした。有体に言えば、米国はこの原資に武器貸与の棒引きを使ったということだろう。

46年にIMF理事になったホワイトは、45年5月の国連設立委員会の米国派遣団上級顧問でもあった。ホワイトが国連憲章に関する交渉の合間に密かにソ連の諜報将校と会い、彼らに米国の交渉戦略についての情報を提供していたと「Venona」はいう。

彼はソ連に対し「トルーマンとスティティニアス(初代国連大使)はどんなに高くつこうともこの会議の成功を成し遂げることを望んでいる」と請け合い、仮にソ連が国連の行動に拒否権を行使するとの要求に固執しても、「米国は合意するだろう」と助言した。

中ソ以外への武器貸与に関する「Venona」の記述だが、英国については、フランク・コーに関する解読暗号の44年11月の1通が、彼が提供したフィルム化文書5巻が配送中であるとモスクワに報告していて、英国への武器貸与計画とその交渉に関するメモと報告書が簡潔に描写されている。

フランスとイタリアへの武器貸与では、ルーズベルトの対仏武器貸与政策に関するメモ、武器貸与本部の対伊武器貸与計画に関する報告などもソ連に流れていたことが「Venona」で解読されている。

当時のソ連は米国の武器貸与計画(に限らない)の多くを米政権の高官スパイを通じて知悉していた。それに引き換え今回のアフガン撤退では、バイデンもペンタゴンも「こんなに早くカブールが落ちるとは思わなかった」と口を揃える。諜報の弱さは命取りになると日本も肝に銘じるべきだろう。