フランスのマクロン大統領は29日、アフガンニスタンを離れる人々を保護するための「安全地帯(safety zoon)」をカブールに設けることを提案する決議を、30日に予定されている緊急国連会議に英国と共に提出すると述べた。29日のロイターが伝えた。
記事は併せて、グテーレス国連事務総長が、アフガンに関する会議のため安保理常任理事国の米英仏中露の使節を招集していること、フランスがアフガンの人道状況と避難案件についてタリバンと予備的な話し合いを行っているとマクロンが28日に述べたことを報じた。
ロイターは別記事でも、マクロンが複数の中東指導者との首脳会談をしたバグダッドで「人道支援と危険に晒されているアフガン人を保護し、元に戻す(repatriate)する能力について、タリバンと非常に壊れ易い予備的な話し合いを始めた」と述べたと報じている。
加えてマクロンは、仏政府は27日にカブールからの避難活動を終了したが、アフガンを去るために保護を必要とする人々を支援し続けるとも述べた。後述するように、フランス人はこの種の人道支援をしばしばして来ている。
そこで日本の対応だが、自衛隊輸送機のアフガン到着は26日だった。お隣の韓国はその日、アフガン人の協力者とその直系家族391名を乗せた軍用機を仁川空港に到着させた。韓国各紙はそれを「Kミラクル」と大々的に書き立てた。
日経は28日、「日本のアフガン退避難航 自衛隊派遣、初動の遅れ響く」と題し、米軍や英国軍の協力で「政府は17日までに日本人の大使館員や国際協力機構職員、出国を望む邦人を第三国に退避させた」が、「日本に過去20年間協力してきたアフガン人職員らは取り残された」と報じた。
同記事は「英国が駐アフガン大使を現地にとどめ、アフガン人へのビザ発給などの作業を続けたのと対照的だ」とする。17日までに第三国に退避させた邦人以外にも、残りの邦人や出国を望むアフガン人関係者がいるにも拘らず、大使館員を早々に退去させた我が外務省の対応には失望させられる。
空港までのアクセスが難関なのは容易に想像がつく。自衛隊法の制約で、自衛隊は米軍が管理する空港から出ての活動はできない(前掲日経)。ここが大使館職員の活躍のしどころだ。韓国はカタールに退避させた大使館員のうち4人を、22日にアフガンに戻したという。
筆者は、本件でガニ大統領が早々にアフガンを出たことやマクロンの「安全地帯」と我が大使館員退去の記事を読み、「南京事件」を想起した。日本軍入城を前に、南京市内には「国際安全地帯」が置かれたが、唐生智防衛総司令と馬南京市長の軍民両トップがいち早く逃げ出した一件だ。
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37年11月に南京市城内に設けられた「南京安全区国際委員会」は、同年8月から約2ヵ月にわたって起きた第二次上海事変に際し、フランスイエズス会のジャキノ・ド・ベサンジ神父が尽力した「上海安全地帯」を模したものだった(38年11月7日の「TIME」)。
「TIME」はこの「ジャキノ・ゾーン」と呼ばれる地域が上海の「25万人の中国人難民を護った」とし、「先週、漢口にジャキノ神父が現れ、10万人の中国人難民のための地域を再び設立」したので、「南京大虐殺の再発を恐れる何百人もの漢口の中国人が爆竹を鳴らした」と書く。
記事の日付から、「先週」とは38年10月末だ。秦郁彦の「日中戦争史」(河出書房)には「大本営は38年8月22日に漢口作戦を開始し、9月末に最大拠点の田家鎮要塞を占領した。これで中国軍は漢口死守を諦めて退却、10月26日には炎上する漢口市街を日本軍は完全に占領した」とある。
「TIME」を創刊したヘンリー・ルースの親中ぶりは19年12月の拙稿に書いた。ちなみに37年の「TIME」のパーソン・オブ・ザイヤーとして表紙を飾ったのは蒋介石と宋美齢のカップルだ。記事が日本に厳しいのは当然といえる。
そこで筆者は、ジャキノ神父がなぜ南京に現れなかったのかとの疑問を懐く。37年8月に上海で25万人、38年11月には漢口で10万人の中国人をジャキノ神父が救ったと「TME」は書く。だが神父が現れなかった南京では、37年12月に「30万人」が日本軍に虐殺されたと中国は喧伝する。
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その南京の国際安全地帯に触れて本稿を結びたい。南京事件では多くの優れた研究書があるが、本稿は冨澤繁信の「『南京事件』発展史」(展転社)と藤岡信勝・東中野修道の共著「ザ・レイプ・オブ南京の研究」(祥伝社)を参考にした。
日本軍が上海から南京を目指す中、37年11月に国際委員会が設けられた。「独シーメンスの南京代理店の長ジョン・ラーベが委員長に祭り上げられ」、委員は米国人7人、英国人4人とドイツ人がラーベら4人。中国人シンパの米国人宣教師や大学教授が多数を占めた。
「安全地帯」は南京大学の米国人教授が上海の「ジャキノ・ゾーン」を念頭に提案した。国際委員会が馬市長(12月8日に逃げていた)の職責と役所業務を引き継いだと報じられたが、「ラーベ日記」には「結果的に中立性を維持する成果は上がらなかった」と書かれている。
ラーベは「安全地帯」の「高射砲は撤去されず、中国兵は地区内を立ち退かず」約束が実行されないので「あいつらの首を絞めてやりたい」と叫び、中国人や中国紙は「中国兵は最後の一兵まで戦うべきだ、安全区があるとそこへ逃げ込んでしまう」と言っていた。
この中国兵の有様は、「陥落寸前の12月12日20時、南京防衛総司令の唐生智が部下と市民を見捨てて北門から逃亡した」結果だった。統制を失った中国兵は北門に殺到、「圧死した者」や「固めていた友軍の督戦隊に撃たれて死んだ兵士の死骸は高さ6フィートになった」という。
「両手を挙げて降伏の意志を示す中国兵は皆無」で、「多くの兵士が軍服を脱ぎ捨て、武器を隠し持って安全地帯に逃げ込んだ」。つまり、上海の「ジャキノ・ゾーン」と違って、委員長のラーベ自ら嘆くように南京国際委員会は、武装解除もせずに敗残兵を受け入れたのだ。
日本軍は「市内の敗残兵は、安全区にいると安全区外にいるとを問わず、捜索されるべきとの見解」だった。掃討を受け持った第七連隊の「南京城内掃蕩成果表」(12月13日~24日)は、「刺射殺数(敗残兵)6,670」と記している。
この行為を戦時国際法に照らして不法殺害と見做すか、合法の処刑と見做すかについて、東中野は「指揮官を戴かず、軍服を脱ぎ捨て、公然と武器を携行することなく隠し持ち、戦争法規の慣例を踏みにじっていた」彼らは、ハーグ陸戦法規にいう「交戦者」に該当しないとする。
このため南京国際委員会の欧米人は、中国兵を「裁判なしに処刑した日本軍に対して、戦時国際法違反だと主張できなかった」と東中野は書く。南京事件が本稿のテーマではないのでは深入りしないが、筆者は一部の跳ね返りによる事件は否定しないものの、万単位の虐殺などあり得ないと考える。
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話をアフガンに戻せば、一般市民の生命や人権は戦時であろうと保障されねばならない。7月末に天津で王毅外相と会ったタリバンNo2のバラダル師が23日、バーンズCIA長官とカタールの仲介で会談したと25日のCNNが報じた。
ISIS-Kのテロは、早々に報復したバイデンには勿論、国際社会から注視されるタリバンにとっても迷惑だろう。タリバンは、決議されれば「安全地帯」に協調し、国際社会が要請する外国人や関係するアフガン人の円滑な国外退去に進んで協力することが生き残る途と知るべきだろう。