「分断」に満ちた世の片隅で思う事 :アフガン情勢、自民党総裁選などから『竜とそばかすの姫』を考える

序: 「分断」に溢れる世界で

<アフガンから来る世界の分断>
平和裏に綺麗に撤兵し、米国も他国も以後は深く関与することなく、自らの殻の内側で安寧を得るのかと思いきや、そうは問屋が卸さず逆に阿鼻叫喚の様相を呈している。アフガニスタンの現状のことである。

つい先日、自爆テロで米国の兵士が13名犠牲になったそうだが、極端に悲観的に見ずとも、仮に撤兵はしても、今後も欧米とタリバンほかイスラム勢力との潜在的・顕在的なにらみ合い・衝突が続いて行くことは容易に想像できる。融和を唱えてはいるが、タリバンやイスラム陣営による欧米へのこれまで・今後の協力者の粛清が続き、同地の欧米へのテロの温床化の危険性が高まり、下手をすると再出兵、ということにもなりかねない。中国やロシア、更にはパキスタン等の周辺国家の思惑も重なり、今後の世界は複雑な分断の様子を見せていく可能性が高い。

首都カブールを陥落させ、ほぼアフガン全土を掌握しつつあるタリバンは、欧米の報道だけを見ていると極端な女性差別を志向するなど、人権重視の欧米的価値観からは「極悪集団」にも見えてくるが、色々見ていると実態はそう単純ではないようだ。

日本でも震災時に家を失った人たちなどへの炊き出しで、本当に大変な時には、行政よりも地元のヤクザが貢献している、と言った話が少なくないが、喩えは正確ではないが、私見ではタリバンにも似た側面がある。市民のある程度の理解なしに、単純な恐怖政治だけで勢力圏が広がるものでもない。日本が誇るべき医師であり、アフガンに多大なる貢献をした中村哲氏の書き残したものなどを読むと、かなりタリバンの肩を持っている印象だ。要は、欧米による「膺懲」で済む問題ではない。

「正義の反対は、悪ではなく逆の正義」という名言があるが、そうであるが故に分断の根は深い。

<国内政治の分断>
激動の世界情勢の中、約一か月後に、日本では与党自民党の総裁選が行われ、また、任期満了に伴う衆議院選もほどなく行われる予定である。

まあ、ユートピアに過ぎるし、真剣な論争も含む真の戦いを経ないと正義の発現は難しいという議論も分からないではないが、コロナ対応という未曽有の国難(世界的困難)もあるし、国際的混乱を招きかねない上記のアフガン問題もあるし(※)、もう少し国会議員全体としても、自民党内も、一致団結して事に当たれないものだろうか、という気がするが、分断は埋めがたい。

※・・・大きな犠牲を出しての不格好な撤兵や、再出兵せざるを得ないような事態は、バイデン政権の痛手にもなりかねず、間隙を縫っての中国のタリバンとの蜜月実現(本来はウイグル問題などを巡って微妙な関係であるはずだが)は、地政学的には、米国の退潮と、台湾や日本への中国の圧力増大、となって跳ね返ってこないとも限らない。

前者の自民党総裁選では、高市氏などの立候補も取りざたされているが、大きくは、有力視されている菅総裁(総理)の続投が決まるのか、岸田氏が党内の不満をうまく吸い上げて逆転するのかが、注目点であろう。岸田氏は、党役員の人選方法などについて、いわば二階幹事長をはじめとする現体制をパージする案を掲げている。もう少し大胆に若手に自ら席を譲って行っても良い感じもあるが、現幹事長の二階氏の処遇が一つの焦点ながら、基本的には、現与党幹部は、年功序列的に重要ポストをガッチリ握って行く様相である。与党内ですら分断が激しくなりそうであるところ、いわんや、国難を前にしての自民党と立憲民主党の協力などは望むべくもない

世の常とはいえ、政治の世界の分断の根もまた深いものがある。

<家庭内・ネット空間での分断>
コロナ下に入ってから、個人的に気になっているデータが自殺者数の増加である。昨年(2020年)、11年ぶりに2万人を突破してしまった自殺者数は、警察庁の調べでは、今年(2021年)の1~7月に、既に昨年を1000人上回って推移している。全体の人口が減少している中での自殺者の増加は、経済面・精神面での苦境・苦痛が社会に重くのしかかって来ていることの証左であると言える

コロナ下での急激なテレワーク・オンライン授業等へのシフトは、職場や学校におけるコミュニケーションの在り方を劇的に変えてしまい、孤独や孤立から来る不安や不満に苛まれる人が激増しているとも言われる。また、外出減の反動として、過密ともいえる形で、日々、夫婦・家族が家庭内にいることとなり、夫婦喧嘩や親子喧嘩が増えているとも言われている。

職場や家庭などのコミュニティにおける分断や孤立の結果、居場所を失った弱い個人が、そこから離れた場合、他のコミュニティにすんなりと入れるとは限らない。一般的には、特に家出をした子供たちが家庭以外の安全な場所に入ることは、とても困難だ。結果として家庭の庇護下から離脱する形で経済的弱者が増えていくわけであり、それが、また、貧困・犯罪などの遠因にもなっている。

そして、外出もままならない中で人々は益々、PCやスマホを通じてインターネット空間に浸る・逃げこむことになるが、そこもまた、過密に人々の注目が集まる空間であり、ネット内のアチコチで炎上という名の火の手が上がり、責める人・責められる人の分断が生じている。ヴァーチャル空間もまた単純には理想郷とはなり得ない。

「分断」は人類の宿痾でしかないのであろうか。

破: 分断の連鎖を前に出来ること ~祈りにも似た芸術の役割~

主宰している青山社中リーダー塾に参加している若い塾生(主に大学生や20代~30代の社会人)や弊社学生インターンには、こうした上記のような各種「分断」の解消に果敢に取り組まんとしている若手も多く、議論などをする度に勇気をもらい、頼もしく感じることが少なくない。

彼ら彼女らの多くは、国際公務員や外交官として、或いは、日本の政治家・官僚として何とか「分断」を埋めて行きたいという意欲にあふれており、日夜勉学にいそしみ、各種経験を積んでいる。

ただ、本質や実態を見ようとする人物であればあるほど、すなわち、老成された若者であればあるほど、こうした「分断」の解決策としてのルールメイキング(条約や法制度の整備)が、現実にはあまりに困難だったり無力だったりすることに気づいてしまい、ナイーブに政治家や公務員になることに戸惑いを感じる向きも少なくない。

即ち、これまで述べてきたような各種の「分断」を解消するには、政治や行政といった分野での制度面・インセンティブ面での闘いを続けるだけではダメだと、それだけでは埋められてこなかった各種の分断の解消を模索しなければならないと、ポジティブに芸術の可能性を模索する者が増えている気がする。

傍から見れば、そうした動きは、逃げに見えるかもしれない。ある意味で祈りのような作業でしかないかも知れない。しかし、余暇や自由な時間の増加傾向、ネット空間の膨張などは、広い意味でのエンタメ世界の拡大をもたらしており、そこに分断解消の可能性を見出すことは至極当然なアプローチにも見える。

つまりは、例えば古くはピカソのゲルニカではないが、絵画や映画や小説や歌などの芸術作品を通じて「分断」の悲惨さを一人一人が痛感して行くことが、政治や行政という手段に対する大きな援軍となり得るわけであり、もしかすると、そちらこそが本軍になっていくのではないかとの気づきである。

そんな中、先日、話題の映画『竜とそばかすの姫』を家族で鑑賞した。本作品は、家庭内、学校内、ネット空間における分断を、ディズニーの名画をモチーフに巧妙に組み合わせて描きつつ、愛と寄り添い、その具現化としての歌による解決という祈りにも似た芸術の可能性を体現した見事な作品となっている。(ストーリーに不自然な無理な点が多々あるが、真実を描くために嘘を混ぜることが芸術だとすると、許容範囲であろう)

竜とそばかすの姫公式HPより

分断は何故生じるのか、という点については、まさに、その名もジャスティン(正義=ジャスティスのモジり?)というキャラクターが出てくるが、「人間は、正義を振りかざしたくなる生き物であり、その行為こそが大きな分断を生む」という真実が見事に描かれている。家庭内の虐待も、学校でのいじめも、ネット空間での炎上も、その要因の多くは、他者に寄り添うことのない「正義のふりかざし」である。

ブレイディみかこ氏の話題作『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で見事に描かれているように、学校でのいじめは、本質的には正義を振りかざしたい情動から来ていることが多いし、また、宇佐見りん氏の芥川賞受賞作の『推し、燃ゆ』で活写されているように、ネットでの炎上もまた、正義の振りかざしによる攻撃が原因だ。

多くの国民が、上記の3作品を読んだり鑑賞したりすることは、間違いなく世界の「分断」解消、すなわち虐待や炎上の低減に向けた大きな援軍となるであろう。法制度やルール整備以上の「本軍」になっていく可能性すら秘めていると感じる。

急又はQ: 分断解消の鍵としてのクエスチョン

月末のメルマガに間に合わせるという都合上、あと数分で脱稿しなければならないという大人の事情で、序、破、と来て「急」に筆をおくことになるが、最後に思うのは、分断解消の鍵は「Q」ということだ。

すなわち、自分の「正義」は本当に寄り添いに基づくものなのか、別の正義を考えた上でのものなのか、常に問う姿勢(クエスチョン)からしか、世の中の分断解消は進まないのではないかと思う。

今月は、上記のアフガン情勢もさることながら、敗戦・終戦の月ということで、戦争にまつわる素晴らしいドキュメンタリー作品を多々鑑賞した。真珠湾攻撃(1941年)から丁度節目の80年ということもあり、NHKスペシャルなどでも、開戦の真実に迫った作品に力を入れていた印象があるが、例えば、先の大戦で大きな犠牲を出した日米の双方の国民が互いに、様々な作品を通じて、自己の「正義」を客観的に振り返ることが必要であろう。そこからしか次代の分断解消は生まれ得ない。

芸術から来る「Q」こそが、さまざまな世界における分断解消に向けた鍵であると最近、痛感する次第である。