恐怖心と羞恥心を強要する差別禁止法に警戒せよ

近年、差別問題への関心の高まりから「差別禁止法」に関する議論が活発である。

代表的なのはヘイトスピーチに関するものであり、国レベルでは理念法、地方自治体レベルでは川崎市で罰則付きの禁止条例が既に制定されている。また、先の国会で廃案になったいわゆる「LGBT差別解消法」も差別禁止法にあたる。

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人種・性などの変更不可能な属性への差別は法的に禁止されるべきであるという主張はもっともらしい。しかし、筆者はこの差別禁止法に強い警戒心を持っている。なぜなら差別禁止とは平等を追求すること、即ち人種差別禁止は人種平等、性差別禁止は性の平等を追求することに他ならないからだ。

我々は知っているはずだ。平等を追求する運動は超越的権力を成立させ、これが社会を抑圧した歴史を。

熱烈な運動の結果、成立した権力による平等とは「上からの平等」であり、それは単なる「平等の強要」に過ぎなかった。旧共産圏で起きたことはまさに「平等の強要」であり、資産家・学者などがレッテルを張られ攻撃され文字通り消滅した。

一方で「平等の強要」を行う超越的権力は平等社会から一段高見にいる存在であり、彼らは平等社会の一員ではなく、その圧倒的権力を背景に富を集め「赤い貴族」と化すという茶番を演じた。だから崩壊したのである。

我々はもっと歴史を参照すべきではないか。

共産主義運動と差別禁止運動は平等の追求という一点において共通しており、その共通は重大かつ深刻である。控えめにいって旧共産圏で起きたことは生活水準を巡る悲劇であり、生活分野である以上、人々は「闇市場」「裏ルート」「役人の手心」などを通じて不満を誤魔化すことが出来た。

しかし、人種・性などは性質が全く異なる。この分野での「平等の強要」は「恐怖心と羞恥心の強要」に陥る危険性があり、これに伴う不満を誤魔化すことは容易ではない。

恐怖心と羞恥心を強要する社会は全く不健全であり「個人の自由」がなきに等しい社会である。

「外国人は怖い」という恐怖心の吐露が人種差別と批判されたり、性器や素肌を露出する場(トイレ・更衣室等)での「性の平等」が大真面目に議論されている現状を考えれば筆者のこの警戒は決して過剰ではあるまい。

何よりも恐怖心と羞恥心を吐露する行為は人格陶冶に欠かせない作業であり、率直に言って差別を考えるうえで重要なのは人種や性などの属性よりこの二つの感情ではないか。

筆者は特定表現の禁止より恐怖心と羞恥心を吐露する行為を基礎に他者との交流を深め個人的社会的課題を解決する能力を育成する施策の方がはるかに「差別がない社会」に通ずると考える。この施策を青臭くいえば「勇気と自立心」を育む施策と言えようか。

差別をなくすために必要なのは「禁止」ではない。恐怖心と羞恥心について語ることである。

差別禁止法を制定・施行しても他人の些細な発言・振る舞いに差別を感じる狭隘な、少し過激に言えば陰湿な人間が社会にあふれるだけだろう。そして陰湿な人間は差別と相性が良いと思うのが普通ではないだろうか。