在中国のドイツ大使館は6日、同国のヤン・ヘッカー駐中国大使が亡くなったと発表した。同大使は8月24日、ドイツの駐中国大使として就任したばかりだった。中国は大国意識が強く、米国と様々な分野で対立している。欧州も例外ではない。中国との貿易協定は中国の人権問題などがネックとなり、現在批准作業が凍結している。北京に乗り込んだヘッカー氏は自身の使命に意気を感じ、頑張ろうとしていた矢先だったはずだ。その大使が就任直後、原因不明で急死したのだ。ドイツの情報では、ヘッカー氏は持病持ちではないし、健康管理を忘れないスポーツマンタイプの外交官だったという。
ヘッカー氏は54歳だ。同氏の訃報を聞いて、同氏を駐中国大使という要職に抜擢したメルケル首相はきっと驚いただろう。メルケル首相は声明を出し、「衝撃を受けた。深い人間性と卓越した専門性を供えた側近を失って悲しい」と述べている。メルケル首相には、ひょっとしたら、ヘッカー氏の家族関係者には申し訳なかったという思いがあるかもしれない。ヘッカー氏は長い間外交分野のアドバイサーとして、首相の外国訪問には必ず随伴してきた最側近の一人だ。メルケル首相は自身の16年間の政治生命の幕閉めの前にヘッカー氏に名誉である大国の大使に抜擢したいという思いがあったはずだ。一種の論功行賞だ。54歳で大国の大使に就任するのは通常の外交官キャリアからみたら大抜擢だろう。
メルケル首相のこの抜擢人事が禍となって、54歳は北京で急死したことになる。ヘッカー氏にとってもメルケル首相にとっても文字通り、予想外の展開となった。誰に対しても不満や批判はできない。
ヘッカー氏は1967年、キールで生まれた。大学では政治学と法律を学び、大学教授、弁護士などに従事。その後、連邦内務省、連邦行政裁判所の裁判官を経て、欧州に中東・北アフリカから大量の難民が殺到した2015年、連邦首相府の難民対策のスタッフとして指導力を発揮して注目された。そして2017年以降、メルケル首相の外交政策顧問として歩んできた。ヘッカー氏はそのキャリアを見る限り、典型的な職業外交官とはいえない。
独週刊誌シュピーゲルによると、ドイツでヘッカー氏に代わる人材は見当たらないから、ドイツの外交にも大きな痛手となると予想している。特に、ヘッカー氏の急死はメルケル首相が過去16年間、構築してきた対中政策の終焉を意味するのではないか、という声がドイツのメディアでは報じられている。
メルケル首相は16年間の政権期間、12回訪中し、毎回、大規模な経済使節団を引き連れて北京詣でをしてきた。その訪中回数は欧州首脳陣の中では飛びぬけて多い。訪中する度に、中国の人権問題には一応言及するが、その焦点は中国との経済関係強化にあった。メルケル首相の対中宥和政策を支えてきたのが外交顧問だったヘッカー氏だった。そのヘッカー氏が急死し、メルケル首相が9月の連邦議会(下院)後、政界から引退することから、ドイツの対中政策は必然的に変化せざるを得なくなるわけだ。
ドイツでは今月26日、連邦議会選(下院)が実施される。複数の世論調査では、社会民主党(SPD)が第一党に躍り出、SPD主導の連立政権が誕生する可能性が高まってきた。そしてSPDの対中政策はメルケル首相時代の対中路線とは変わり、より強硬なものになるかもしれないと言われているのだ。
興味深い点は、中国の欧州市場への進出に対し、最初に警告を発したのがSPDの当時外相だったったジグマール・ガブリエル氏だった。ガブリエル独外相(当時)は2018年2月17日、独南部バイエルン州のミュンヘンで開催された安全保障会議(MSC)で中国の習近平国家主席が推進する「一帯一路」構想に言及し、「民主主義、自由の精神とは一致しない。新シルクロードはマルコポーロの感傷的な思いではなく、中国の国益に奉仕する包括的なシステム開発に寄与するものだ。もはや、単なる経済的エリアの問題ではない。欧米の価値体系、社会モデルと対抗する包括的システムを構築してきている。そのシステムは自由、民主主義、人権を土台とはしていない」と中国共産党政権の意図を喝破している(「独外相、中国の『一帯一路』を批判」2018年3月4日参考)。SPD外相は当時、「キリスト教民主・社会同盟」(CDU/CSU)出身のメルケル首相より中国共産党政権の実態をよく知っていたのだ。
参考までに、9月の総選挙後、CDU/CSU主導の連立政権が誕生した場合、メルケル首相の対中路線が継続される可能性は高い。経済を重視するCDU/CSUの党首相候補者アルミン・ラシェット党首(ノルトライン=ヴェストファーレン州首相)が首相に就任すれば、メルケル首相の対中政策を積極的に継続していくことは明らかだ。その意味で、総選挙の結果は中国にとっても大きな意味合いが出てくるわけだ(『武漢肺炎』と独伊『感染自治体』の関係」2020年3月20日参考)。
ヘッカー氏の急死の原因は不明だ。事件性も完全には排除できないから、死因解明が重要となる。いずれにしても、ヘッカー氏の急死を運命として受け取る以外にないのかもしれない。同氏の冥福を祈る。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年9月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。