欧州テロ専門家の「9・11テロ」検証

欧州のテロ問題エキスパート、英国のキングス・コレッジ・ロンドンの「過激化研究国際センター」の所長、ドイツの政治学者ペーター・ノイマン氏(46)は10日、オーストリア国営放送とのインタビューに応じ、今月11日で20年目を迎えた米国同時多発テロ事件(9・11テロ事件)の背景、国際テロ組織「アルカイダ」とウサーマ・ビン・ラーディン、イスラム過激派テロ組織「イスラム国」、そしてアフガニスタンを占領したイスラム原理主義勢力タリバンについて、その見解を述べた。以下、オーストリア国営放送のインタビューで語った同氏の発言内容をまとめた。

欧州のテロ問題専門家ペーター・ノイマン氏(2017年5月23日、欧州安全保障協力機構(OSCE)のアンチテロ会議で)

米国同時多発テロ事件が再発する可能性について。

「あのような規模のテロ事件が再び行われる可能性は考えられない。米国の国境警備、テロ対策は厳重になっているから、20年前のようにイスラム過激派テロリストが容易に米国に入ることは出来ない。20年後の今日、コンピューターのネットワーク、IT網がインフラから電気機材まで社会全域を接続していることから、テロリストは9・11テロとは違った形のテロを計画する可能性は排除できない。民間旅客機をハイジャックしてワールドトレードセンタービルに衝突させるといったことをしなくても、社会全体をマヒ状態に陥れることができる」

小規模なイスラム過激派グループが世界最強国の米国を襲撃することができた背景について。

「9・11テロ事件調査委員会がその報告書の中で批判していたが、米国の治安関係者は当時、イスラム過激派テロリストが海外駐留の米軍基地、米国大使館、企業、米旅行者を襲撃する危険性は考えていたが、米国内で大規模なテロを実施するとは想像だにしていなかった。また、1990年代のイスラム過激派、ジハーディスト(聖戦主義者)は弱体化していたため、米国側には警戒心が薄れていたが、実際はイスラム過激派は当時もアフリカ東部などでテロを行っていた。ウサーマ・ビン・ラーディンは計画的、組織的にテロ計画を進行した。小規模のテロ事件からその後の9・11テロ事件を予感させるものがあったはずだが、見落としてしまったのだ。米国の複数の情報機関の間のコミュニケーションがスムーズではなかった。9・11テロ事件を調査した関係者が語っていたが、米国側の戦略的ミスだといえる」

ウサーマ・ビン・ラーディンはサウジの建設会社の富豪の家庭の息子で、推定800憶ドルの資産を継承したといわれていた。富豪の息子がどうしてイスラム過激派に転身していったか。

「ビン・ラーディン家はサウジの有名な実業家のファミリーだ。ウサーマは家族の中でも変わり者だった。宗教の教えを真剣に受け取っていたからだ。サウジの友人によると、ウサーマは西欧社会の文化を嫌い、イスラム過激派主義に傾倒していった。1980年代はサウジはアフガニスタンのジハーディストを支援し、旧ソ連軍と戦っていた。多くの若いサウジ人はアフガンに出かけ、旧ソ連軍と戦った。ウサーマ・ビン・ラーディンはその人脈、資金力、カリスマもあってアフガンで直ぐに指導的地位に持ち上げられていった。サウジの富豪の息子であり、働く必要すらなかった人間が貧しい人々と共に占領軍の旧ソ連と戦っている姿はアフガン、パキスタン、サウジの若いイスラム教徒からの尊敬を受けた。

ビン・ラーディンは1984年前にも何度もアフガンに行っていたが、84年以降アフガンに長期滞在している。1980年代の終わり、旧ソ連軍との戦いが勝利で終わった。そこで多くの聖戦兵士たちは『これからどうするか』で議論があった。一つは世界でイスラム教徒が迫害されている地域に緊急部隊を派遣するというアイデアだ。エジプト出身のジハーディストは、『アラブ諸国で革命をするのは難しい、西側諸国が背後にあって権力者を支援しているからだ。だから西側こそイスラム教社会の最大の敵だ」として、西側社会へのテロ作戦を主張した。最終的には、後者がその後の路線となっていった。ウサーマ・ビン・ラーディンはサウジに戻り、王国関係者に戦いの継続を提唱したが、受け入れられなかったことから、彼はイスラム過激派主義者と共に西側社会への戦いを進めていったわけだ」

「アルカイダ」について。

「アルカイダは最初は単なる名前リストに過ぎなかった。多くの専門家は、アルカイダは1988年に発足したとみている。最初はアフガンで旧ソ連軍と戦ったアラブ諸国からの義勇兵(ムジャヒディン)を中心に組織が形成され、ウサーマ・ビン・ラーディンを指導者として拡大していった。1990年代半ばごろから、ビン・ラーディンらも自身を『アルカイダ』と呼び出した」

9・11テロ事件について。

「同事件は1990年代後半から長期間準備されていった。民間旅客機を利用したテロは決して新しいものではない。よく似た事件は1994年、アルジェリア出身のジハーディストがフランスのパリのエッフェル塔を飛行機で爆発する計画があったが、治安関係者に発覚、挫折した。民間旅客機を利用したテロはアルカイダ前にもあった。アルカイダの専売特許ではない。

1997、98年頃、アフガンで9・11テロ計画が構築され、実行部隊のチームが結成された。飛行機のパイロットとなる人材を独ハンブルク工科大学で見つけ、米国で訓練させた。4人の学生は知性だけではなく、体力もあるうえ、米国内を数週間動き回ってもFBI(連邦捜査局)から直ぐに監視されるようなタイプではなく、西側文化に精通していた。英語、ドイツ語、アラブ語を駆使した知性人だ。誰も彼らの目的を見抜けなかった。チームのリーダーはエジプト出身のモハメド・アダだ。彼はハンブルク工科大学で建築学を学び、イスラムサークルで過激主義に傾斜。その後アフガンでビン・ラーディンと会っている。

ちなみに、モハメド・アダも裕福な家庭出身で、恵まれた未来が約束された人間だったが、彼は西側文化を嫌悪、疎外感に悩まされていた時、ハンブルクのイスラム寺院で過激なイマームに出会った。このイマ―ムはアフガンでジハーディストとして戦ってきた人間だ。イスラム教徒の過激化の典型的なプロセスだ」

9・11テロ事件後、欧州では単独か小規模なテロ事件はあったが、大規模なテロは生じていない。

「ニューヨークの9・11テロやパリの2015年11月3日の同時多発テロのようなテロを実行するためには組織力、資金、人材が必要だが、欧州の治安関係者が潜在的テロリストの通話を盗聴する一方、24時間監視しているため、アルカイダやISはもはや大規模なテロを計画できなくなった。欧州では単独テロ、通称、ローン・ウルフ(一匹狼)と呼ばれるテロ実行犯が自分の怒りや不満を契機に、簡単な武器、刃物や車両を利用してテロを行うケースが増えていった。

ウサーマ・ビン・ラーディンにとってアフガンは安全な拠点ではなかった。だから、スーダンに行ったり、サウジに戻ったりしていたが、タリバンが1995年、アフガンで政権を発足させた後、状況は激変、アフガン内でテロ訓練キャンプを行い、イスラム過激派をアフガンに呼び寄せることもできるようになった。9・11テロ事件調査委員会の報告によると、『アルカイダはタリバンの庇護のもと、9・11テロ事件を計画、準備できた。この点がアルカイダのテロが実行できた大きな要因だ』と述べている」

タリバンが先月15日、アフガンを再び占領した。アルカイダやISがタリバン政権のもと、その活動網を構築する危険性は考えられるか。

「タリバン指導部は20年前の失敗から教訓を得ている。アルカイダとウサーマ・ビン・ラーディンがアフガンに暗躍していたから米軍がアフガンに侵入してきたと考えている。ただし、今現在タリバンは広大なアフガン全土を支配しているわけではないので、内戦の危険は常にある。そのカオス状況を利用してアルカイダやISがアフガンでその活動拠点を構築するかもしれない。ISはシリアやイラクで現地の政治情勢のカオスを利用して勢力を広げていった。ISは現在、2000人から3000人余りの兵力だが、米軍撤退後のアフガンはISにとってリスクがない安全な拠点と考えるだろう。もちろん、ISはシリアのように大規模な活動はできないが、新しい兵士をオルグして兵力を増強できるはずだ。

アルカイダは9・11テロの成功ゆえにそれが足かせとなっていった。アルカイダ支持者は9・11テロの再現を期待するが、アルカイダにはそれを実行するパワーがない。米軍はアルカイダの拠点を壊滅させた。ビン・ラーディンがいなくなったアルカイダが再び9・11テロ事件のような大規模なテロが実行できるとは考えていない」

米国は過去20年間、アフガンに軍を駐留させたが、その主要目的であったテロの壊滅は出来なかった。

「戦略的には失敗した。米国が中東の問題に没頭している間、米国を脅かす本当の敵が台頭してきた。中国の台頭だ。

9・11テロ事件後、メディアは毎月同じようなテロが起きるといったヒステリックな報道を繰返した。ウサーマ・ビン・ラーディンは既に原爆を所有しているとか、アルカイダはソ連より恐ろしいといった専門家の意見も報じられた。ブッシュ政権(当時)が世界的なテロ壊滅を呼び掛けたが、アルカイダの実態はそのようなものではなく、米政権の対テロ戦争を正統化するものではなかった。テロの犠牲者の数では9・11テロ事件より多くの犠牲者が出た紛争や戦争はあるが、テロが身近で発生しうると人々に思わせた点で9・11テロ事件は稀に見る特別なテロだったことは間違いない」

9・11テロ事件  Wikipediaより


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年9月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。