二足のわらじは履けるのか?

ここバンクーバーには二足のわらじを履く経営者が意外と多くいます。通訳業と醤油販売とか食料品店とラーメン屋、私のように不動産事業と本屋というのもあります。大企業が多角経営をするのと違い、一人の経営者が全く違う複数のビジネスを捌くことは可能なのでしょうか?あるいはそのスタンスは正しいのでしょうか?興味深いテーマです。

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私は反骨精神があった気がします。それが育まれた最大のきっかけはバブル崩壊後、海外と不動産を完全否定、本業回帰号令で多くの日本企業が海外の様々な事業を売却、閉鎖してコアビジネスに集中させられたことでしょうか?私はバブル崩壊後の日本の混とんとしたあの時代は間接的でしか知りませんが、海外で意気揚々と活躍していた多くの日本企業があっという間に消え去ったこと、そして銀行の圧力を感じないわけにはいきませんでした。

バンクーバーの大規模開発事業で5年を費やした開発用地の許認可取得業務を終え、いよいよ事業を開始できるという段階の1993年秋、私は電話越しに某メガバンクの本店の担当者と大バトルをしていました。銀行は「あなた、この時期に海外と不動産、しかも親会社は経営不振。その中で本気で事業を進める気なのか?」と迫ります。私は「海外と不動産を十把一絡げにしないでほしい。この開発事業は極めて高いポテンシャルがある」「お宅の会社で今までまともに海外で成功した開発事業などないじゃないか?」「ならこれを一番初めの成功事例にする」「あなたがその開発を進めるとしても銀行は一切支援も保証もしない。そちらの単独のビジネスとなるが覚悟はあるのか?」「失敗したらきれいさっぱり整理して戻ります」。はっきり覚えています、このやり取り。日本に親会社がありながら完全に支援の道が断たれた瞬間です。私が32歳の時です。

結局この事業は大成功します。当時カナダで史上最高額の集合住宅を売り出し、バンクーバーのみならずカナダ中にこの事業の名が伝わりました。多数のビジネスアワードも受賞しました。日本からのツアーバスの中では「この大規模開発は日本の会社がやりました」と説明するほどでした。

当時、仕事を進めながら思ったことは「本業回帰深堀のススメ」と真逆の「専門知識x専門知識」でした。それも脈絡のない専門知識同士でも意外と役に立つことが多かったのです。

もう一つはカナダが小規模事業に対して税制のメリットや異業種交流の場が多く、啓蒙されたこともあります。「考える」という癖をつけさせられ、日本なら業者に任せていたことを「自分でやる」という習慣をカナダ人から学びました。

そうしていくうちに「ん、自分でもできるな」という自信がついてくるのです。会計をシステムを使わずにエクセルで勘定元帳から試算表、年次決算までできる仕組みも作ったし、法務は一般商取引契約書などはほとんど自分で作ります。最近も相手方弁護士と問題点をつぶして50ページほどの契約を締結しました。

一つひとつ自分のビジネスの武器を身に着けていくと最後、ビジネスそのものは70%が同じ土俵でアウトプットの30%の部分だけが違うことに気がつきます。異業種というけれど結局その業種、業界、商品など30%の部分についてあらゆる知識や商習慣を学ぶと多くは2-3年で軌道に乗せられるのです。

「おまえ、それは違うだろう」と言われるでしょう。ただ、私は経営側の立場の話をしています。カフェのビジネスをしていた時、私はエスプレッソマシンでラテを作る練習はしました。しかし、私は店先でスタッフとして業務に従事しないのです。駐車場の事業では料金ブースの中で集金もやったし、客捌きもしましたが、それは特別な事情があるときです。つまり現場をそれなりに程度理解したうえでビジネス全般を決めていく、これが私の仕事であり、それゆえに7つも8つも事業を抱えていてもこなせるのです。

この発想は北米的に見えます。北米の経営者は現場に降りてこないのです。でも私は現場も理解したうえで任せるという仕事しています。つまり日本型と北米型の折衷です。そして経験をどんどん積み上げる、そうすれば更に強みを増す、ということかと思います。

こうやれば二毛作でも異業種でもこなせるようになります。私の頭は常にスイッチが切り替わっていきます。一つの仕事のコマは2-30分でどんどん業務内容が切り替わっていきます。コマが短いので高い集中力を維持することもできます。同じ仕事を一日中やっていると集中力は確実に切れます。それをわざとぶつ切りにする、それが私の秘策でもあります。

二足でも三足でもわらじを履くことは可能だし、実践してよかったと思っています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年9月19日の記事より転載させていただきました。