生き甲斐というもの

他人に感動を与える人は疲れない--明治の知の巨人・森信三先生は、こう言われました。私もその通りだと思っています。生き甲斐や遣り甲斐が生まれてくるのであれば、余り疲労感を覚えません。生き甲斐や遣り甲斐に繋げるということは、イコール自分が楽しんでやっているからであり、又その際立った能動性により感動も生まれ得ます。嫌々やっている事柄は直ぐ疲れるものですが、楽しんでいながら疲れを感じることは、殆どないのではないでしょうか。

論語』に、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(雍也第六の二十)、あるいは「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ」(述而第七の一八)、とあります。後者は、「物に感激しては食することも忘れ、努力の中に楽しんで憂いを忘れ、年を取ることを知らない」といった意味になります。雑念を追っ払い何時も精神が潑剌(はつらつ)と躍動している中で、疲れなど感じないでしょう。

私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生は、次の通り述べておられます--何ものにも真剣になれず、したがって、何事にも己を忘れることができない。満足することができない、楽しむことができない。したがって、常に不平を抱き、不満を持って何か陰口を叩いたり、やけのようなことを言って、その日その日をいかにも雑然、漫然と暮らすということは、人間として一種の自殺行為です。社会にとっても非常に有害です。毒であります。

例えば、よく生き甲斐のある仕事がしたいという人がいますが、仕事において若くして楽しむ境地に入るは中々難しいことでしょう。生き甲斐というものは一つの仕事に対し日々一生懸命に打ち込んで、それを何十年と続けている内に生まれてくるものだと思います。不平不満によって、何らか良くなることは決してありません。寧ろ不平や不満が湧いてきた時にこそ、己の未熟さを思い一層仕事に打ち込むのです。

また、稲盛和夫さんは「働くことが人間性を深め、人格を高くする。働くことは人間を磨くこと、魂を磨くことだ」と仰っています。あるいは中村天風さんは、「人間出生、本来の使命は、宇宙創造の原則に即応して、この世の中の進化と向上を実現化するという使命をもって生まれてきたのである。この使命の遂行こそ働くという行為であり、人間本来の面目というものである。このような使命の遂行観に基づく自己実現の実感、これこそが生き甲斐なのだ」と言われています。

私自身「働く」ことに求めてきたのは、そこに生き甲斐を見つけることでした。人間、此の時代に自分と共に地球上で生きている人々や、これから生まれてくる人達のプラスになることを使命として背負っており、それを成就させることが結果として、その人間の生き甲斐になって行くのだと思います。働き抜くことによって得られる結論は、「自分の生きがいが見出せる仕事は、人のため、社会のためになるものだ。儲かる儲からないは関係ない」ということではないかと思います。

森先生曰く、「人生の根本目標は、結局は人として生をこの世に受けたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にない」とのことで、そこに真の生き甲斐があり、生まれてきた意味がある、とのことであります。自分が生きていることに感謝をし、限りある命を慈しんで生きるという大前提の下、真の生き甲斐を得ることが出来るのだと思います。次の先生の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します「人生の意義を知るには、何よりもまずこのわが身自身が、今日ここに人間として生を与えられていることに対して、感謝の念が起こらねばならぬと思うのです。」


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年10月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。