新国立劇場『チェネレントラ』

新国『チェネレントラ』(新制作)の初日を鑑賞。主役アンジェリーナの脇園彩さんのスケールの大きな歌唱と演技、王子役(ドン・ラミーロ)のルネ・バルベラの素晴らしい高音、脇を支えるダンディーニ役の上江隼人さん、継父ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリ、姉たちクロリンダ高橋薫子さん、ティーズべ齊藤純子さん、王子の教育係にして哲学者のアリドーロ、ガブリエーレ・サゴーナと歌手たちの演技が素晴らしい。19時スタートで一幕だけで2時間近いボリュームだったが、フルパワーで完走したキャスト陣のスタミナには驚いた。城谷正博マエストロと東京フィルによる機微に溢れたサウンドも、色とりどりの歌を引き立てた。

序曲からたくさんのことが始まる。チェネレントラの物語は劇中劇なのか、映画監督やカメラクルーがことの次第を見守っている。『ラ・ラ・ランド』のセットを思い出したが、ノスタルジックな雰囲気はハリウッドではなくチネチッタで、フェリーニの87年の映画『インテルビスタ』が脳裏に浮かんだ。姉たちの花のような衣裳も、どこかフェリーニ風である。

華美に着飾った姉たちは、家を訪れた物乞いを足蹴にするが、チェネレントラは彼を温かく迎えてもてなす。物乞いの正体は変装した王子の教育係アリドーロなのだが、粟國版では大物映画監督で、王子ドン・ラミーロは映画プロデューサーである。アリドーロは、王妃にふさわしい娘を「キャスティングしに」やってきた。その設定に「やられた!」と思った。神の視線をもつアリドーロは、カメラごしに世界を公平に見て、誰に幸運をもたらすかを決める。「審判」の役なのだ。

脇園彩さんの深みのある声が、ロッシーニの大変な旋律をごく自然に歌い、それは語る台詞のように劇場に響いた。ステージの上での脇園さんのオーラは、ちょっと特別なのではないかと思った。感情豊かで愛嬌があり、悲劇的な設定だが確実にハッピーエンドが待っていると、登場の瞬間から確信させる。ロッシーニという作曲家についても、脇園さんが歌手として様々なことを翻訳してくれた。作曲家にまつわる喜劇的なエピソードに惑わされて、シリアスな感情が奪われてい人だという誤解があるかも知れない。ロッシーニはベルカントオペラの軽やかな「文体」をまといつつ、人間の世界の真・善・美を心底信じていた。そこには、宗教的でさえある信念も感じられた。

王子ドン・ラミーロのバルベラは『セビリアの理髪師』(2020年)でもアルマヴィーヴァ伯爵として登場したが、超高音のアリアも含め、快調な初日の演技で、「替え玉」(?)役のダンディーニの上江隼人さんと背格好が双子のようだったのも良かった。上江さんのロッシーニは新鮮で、歌手の新しい可能性を感じさせた。ドン・ラミーロが目も眩むようなアリアを歌った後、チェロとコントラバスが飄々と「♪♪♪♪」と八分音符を刻むのは、拍子抜けして面白い。ドニゼッティも時々そういうことをやる。東フィルのエスプリが心地よかった。

「チェネレントラ」は童話やアニメのシンデレラと違って、かぼちゃの馬車も魔法使いのおばあさんも登場しない。アンジェリーナの魔法の瞬間は、まばゆいドレスがすべてを担っていた。蜜蜂の女王のようなイエローと黒のクチュールドレスが、有無を言わさぬヒロインの勝利を証明した。アレッサンドロ・チャンマルーギによるデザインの衣装で変身した瞬間、脇園さんは静かな威厳を讃える王妃になった。

チェネレントラはオペラの中で、戦わない。このことが、後からじわじわきた。自立した女性として何かに異議申し立ているわけでも、剣をとって鎧を着るわけでもない。「舞踏会に行きたい」と願うだけである。小さな小さな願いである。

それを、ディレクターズ・チェアに座ったアリドーロは見逃さない。監視カメラが行き渡って、犯罪がすぐに見つかる現代の「視線」にも通じるが、もっと詩的にとらえたほうがいいだろう。幸せになる娘は、キャスティングされる。ありのままで、正直な心を失わなければそれでいいのだ。

粟國さんの演出家としての「文体」に畏れ入った。セットの愛らしさ、カラフルな色彩感、人物描写、すべてが気に入った。初めてオペラを見る人にもぜひ勧めたいと思ったとき、後方の客席の会話というのは、よく聞こえてくる。ツウの観客らしき人々の「序曲で色々芝居をつけるのは、少し前までの流行りなんだよ。歌を聞かせればいいオペラなんだから、色々うるさいことをしなくてもいいんだよ」という会話が聴こえた。なるほど。とても批評家的な会話で、自分はそのような文体を拒絶したので、批評家的な威厳というものが身につかなかった。

文体とは、何度も心が通る道であり、愛に導かれた形式であり、人類の未来のために光をまとおうとする意志ではないか…ロッシーニは、ずぶずぶの悲劇としても語れる設定を、楽しく華やかな文体で描いた。チェンバロの根本卓也さんはゴルトベルク変奏曲のアリアを、時々短調で奏でた。長調と短調は表裏一体だ。

大切なことは、一枚布をめくったところに隠れている。脇園さんは、ロッシーニの心とともに生きていた。人間なら悲しみも怒りもあるが、芸術家は文体という魔法を使って真実を表現する。演出の善意、歌手の誠意、指揮者とオーケストラのエスプリが詰まった名演だった。宝石箱のような『チェネレントラ』は、あと5回公演が行われる。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年10月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。