9/28からオペラシティコンサートホールで始まった第19回東京国際音楽コンクール《指揮》の第1次予選12人、第2次予選(7人中4人まで)、本選4人の指揮を見学した。コロナ感染症対策で、第1次予選と第2次予選は一般の観客を入れず、ジャーナリストや関係者などごく少数の見学者のみが参席し、若い指揮者がオーケストラとリハーサル形式で音楽作りをしていくプロセスを鑑賞した。
第1次では参加者12人中6人が日本人で、三浦コンマス率いる東京フィルとともにベートーヴェン『交響曲第2番』を演奏したが、意外にもキャリアも実績もある日本人コンテスタントたちは本選に残らなかった。見学していて感じたのは、日本人参加者が日本語で日本のオーケストラに指示を出すときと、ブラジルやフランスや英国やロシアの参加者が英語で指示を出すときとは、空気感が異なるということだった。言語が通じるから有利というのではなく、その逆で、ついオケに丁寧にしすぎたり、指示が曖昧になったりして、「ズバリ、どんな音楽を求めているのか」が分かりづらい。ステージに登場した瞬間に、コンマスに向かって「いつもどうも」と親し気に会釈をする方もいて、特に問題がないのかも知れないが、海外からくるコンテスタントもいるコンクールでは少し緊張感が足りない印象も感じられた。(しかし、そうした態度は審査には影響していなかった可能性も大きい)。
予選では細かく止めてリズムや強弱を確認したり、イメージを伝えたりする。イマジネーション重視か、数学重視か、それ以外のことか。一次予選では印象に残ったいくつかの人がいた。残念ながら二次に進めなかった上田絢香さんは「エストニアから来ました」という挨拶からはじまり「二楽章は花が咲いたように」「全員が主役になった気分で」と新鮮な言葉で音楽を作り、全体像は見えづらかったが、確かに止めたあとオケの音が「よくなっていく」様子が伝わってきた。少し宇宙人感覚も感じられる上田さんを、マイナー扱いしたくない。この先もオリジナリティを追究して指揮を続けて欲しい。
もう一人の女性の参加者である齋藤友香理さんも、「ベートーヴェンの2楽章ではハイリゲンシュタットにある居酒屋をイメージしています」と詩的な表現をした。上田さんより指揮全体がもっと骨太だったが、曲に自由なイメージと構想を抱いていることを感じさせ、サウンド全体にこの世界に対する母性愛みたいなものも感じられた。前回の沖澤さんに続くスターとなるか…と期待していたので、1次で終わってしまったのは残念だった。
本選に残った唯一の日本人である米田覚士さんは、一次予選で唯一印象に残った日本の男性の指揮者。自分の記憶力が甘いせいか、他の日本の男性指揮者は、「皆、優秀で勉強熱心だな」という印象でまとまったが、一番不器用で一番若かった米田さんには、それとは別の熱があったので興味が湧いた。指揮台の上では要領よく言葉は出てこないが、頭の中で次々とベートーヴェンのアイデアがたくさん湧き出してくるといった感じ。この先、この人が何を聴かせてくれるのか、もっと知りたいと思った。
優勝したジョゼ・ソアーレスは、とにかく登場した瞬間から「気」が凄かった。出てきただけで舞台が明るくなる。1998年生まれと大変若いが、体格は他の皆よりどっしりしていて、もう少ししたらバッティストーニくらいになるかも知れない。呼吸感が安定していて、ジェスチャーがはっきりし、音楽表現にとても高い理想を持っている指揮者だと瞬時に思った。オケの響きも明るい。内容のある明るさで、大きな拡がりと「歓び」があり、ベートーヴェンらしい驚きの瞬間がいくつもあった。三善晃『交響三章』では「ジャズのように」という指示があったり、オペラ歌手のようにいい声で歌って伝えたりと、とにかく個性豊かだった。
2位のフランス人サミー・ラシッドも落ち着いていたが、あまり印象には残らなかった。ものすごく背が高く足の長い若者で、指揮姿はスマート。余計なものを削り取っていくタイプの指揮に聴こえた。
3位のイギリス人、バーティー・ベイジェントは、大変聡明な指揮者という印象。てきぱきとオケに指示を出し論理的に音楽を組み立てていく。場数を踏んでいるな、と思った。何人かの人が「ハーディングに少し似ている」と言っていたが、ハーディングのようにオペラも振る人らしい。英国風だと思ったのは、本選課題曲のロッシーニでBBCオーケストラ風のブラスが吹き荒れたことで、指揮者の肌になじんでいる「風土」のことを思った。
1次と2次では、東フィルの献身的な演奏に心から感動した。誰よりも感動したのはコンテスタントたちだっただろう。こんなに素晴らしいレスポンスをするオーケストラを、若くして振れることは大きな幸運である。ホルン奏者はベートーヴェンで緊張感のある音を何度も出さなければならないが、12人分、毎回完璧に出してみせた。全てのセクションが最高だった。
それゆえに、本選でも東フィルで聴いてみたかった。本選での新日本フィルも勿論素晴らしく、感動的だったが、1次から一緒に音楽作りをしてきた「パートナー」である東フィルとファイナルを迎えたら、参加者の感動もひとしおだったのではないかと想像する。新しいオーケストラとゼロから始める技術も求められていたのかも知れないが、今回は、無観客に近い中での東フィルの最高の演奏がほぼシャドウワークになってしまい、本選での満員のお客さんに聴かせられなかったことが大変口惜しい。本選課題曲のロッシーニなど、東フィルはまた違った音を聴かせたと思う。
とはいえ、新日本フィルの渾身のサウンドにも感謝する。本選最初のサミー・ラシッドのサン=サーンスは、耳に親しいこの曲が大変指揮が難しい曲であると知った。抜粋の演奏だったが、音がどんどん重くなり、後半は聞いていて少しばかり疲労感があった。休憩なしで振る前半二番目のコンテスタントはこれでは不利だろう、と思っていたところ、ジョゼ・ソアーレスが目の覚めるようなストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』を振り出した。同じオーケストラとは思えない立体的なサウンドで、これまで聴いたどのペトルーシュカよりも巨大なイマジネーションを感じさせた。この人は、自分の童心にも無意識にも蓋をしていない。人格のすべての要素が統合され、恐れがなく、信じがたいほど自由な音楽を創り出している。終盤に向かってオケは疲れるどころか、不死身のようなサウンドを合奏する。ストラヴィンスキーがみた人形の夢、ロシアの土臭さ、宗教性、ペトルーシュカのユーモアと悲哀、そしてシアトリカルなヴィジョンが会場に広がった。聴衆賞も得たが、客席の心も彼の音楽の前でひとつになった。
本選では、英国人べイジェントのR・シュトラウス交響詩『死と変容』と、米田さんのチャイコフスキー幻想的序曲 『ロメオとジュリエット』も胸を打った。ベイジェントは本選で心が震えるようなR・シュトラウスを聴かせ、これまで積み重ねてきた経験を証明した。知的なだけでない、何か狂おしい情熱も隠し持っている指揮者である。
米田さんのチャイコフスキーは、指揮する後ろ姿がそれまでとは別人のようで、一回りも二回りも大きくなっていて、チャイコフスキーが血で書いたような美しい和音を一瞬一瞬大切に心で受け止めながら、指揮をしていた。思わず途中から涙が溢れたが、指揮を終えた米田さんも少し泣いているように見えた。1次予選では一番無防備に見えた米田さんが、こんなに深遠な音楽観を持っていたことにも驚き、コンクールの間にもどんどん成長しているのだとたのもしくなった。
2021年はブザンソン国際指揮者コンクールもあったから、今回の参加者たちは東京でのコンクールを高く評価してやってきたことになる。オーケストラのクオリティは「うまいのは指揮なのか、オケなのか」曖昧になるほど青天井に素晴らしかったが、こんないいオケが東京にはあるということを世界の若手に知ってもらえたことは、いいことである。ソアーレスは、2021年の指揮コンが生んだスターだ。彼は将来、メジャーな歌劇場とオーケストラの監督を兼任する大物になるような気がする。
オペラもクラシックも、高踏的であるだけでは生き延びるのが難しい時代になってきたと実感する。そういう時代に選ばれた1位だった。ソアーレスには未来の聴衆を創り出す力がある。素晴らしい知性の持ち主だが、知性だけでない。表しているものがとても幸せで、祝祭的で、平和だと思った。
オーケストラ賞は新日フィルのコンマスのチェさんから、3位のべイジェントに渡された。チェさんの笑顔を見てウキウキ嬉しくなったが、東フィルからの「オーケストラ賞」もあったのではないかな…と勝手に想像した。
リモートによる閉会式で、審査委員長の尾高先生は「指揮の技術と人間性とは別です」「人間性のすばらしさも求めている」といった内容のことを仰られた。また「日本人は何を伝えたいのか、わかりづらい点もあった」と。つきつめていくと、人間が本当に伝えたいこととは、頭で考えるよりもっとごつごつしていて洗練されていない何かなのではないか。米田さんがロメジュリを振り終えた後の、指揮棒を止めたまま号泣しているような感じの背中が忘れられない。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年10月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。