ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』サントリーホール

ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』初日を鑑賞。葡萄畑スタイルのコンサートホールを、オーケストラと歌手が一緒に乗る「目からウロコ」の舞台仕立てで上演するサントリーホールの名プロジェクトも、5年ぶりの開催となる。指揮は、過去にホール・オペラでダ・ポンテ三部作を振り、愉快なチェンバロも弾いた二コラ・ルイゾッティ。オーケストラは東京交響楽団。合唱はサントリーホール・オペラ・アカデミー&新国立劇場合唱団。

マエストロ・ルイゾッティのお姿を見るのも久しぶり。エレガントなたたずまいは変わらず、前奏曲からヒロインの嗚咽のような切ない弦の震えを聴かせた。歌が始まる前から、すべての歌があるといった感じの前奏曲で、これを安易に赤ワインや食べ物に譬えてはいけないが、一滴一滴が神の奇蹟であるような貴重なシャトーワインの味わいを思い出した。

舞台はP席の中央部分をメインに、オケの上段にオペラ空間を作る形になっていたが、映像や美術をうまく使っていたことで、ほとんど物理的な「狭さ」や「小ささ」は感じなかった。トラヴィアータの本質は、スペクタクルではないことを実感。ヴィオレッタのズザンナ・マルコヴァは菫色の豪奢なドレスをまとい、女神のオーラで、背中から見てもどのアングルから見ても完璧に美しい。バレリーナのロパートキナに少し似ている。アルフレードは実力派テノール フランチェスコ・デムーロ。初めて聴いたときから10年くらい経っているが、声質は輝かしくキープされていた。

マルコヴァは最初はためらいがちな気配があったが、1幕の途中からどんどん思い切りが良くなっていく。ルイゾッティの指揮は奔放に思えるほど伸縮自在で、予想外のアクセントもつけられ、歌手に「なんでもやっていいんだよ」という寛いだ心地を与える。オーケストラの音楽にオペラの豊かな素地があるので、歌手は余計な力を出す必要がなかった。マルコヴァはどんどん凄みと迫力を増し、1幕のラストの大変な高音も見事に表現した。あの音を歌わないヴィオレッタは結構いるので、貴重な声を聴いた思い。

2幕は長丁場だが、見応えがあった。ジェルモンのアルトゥール・ルチンスキーが登場して空気感がさっと変わった。声量があり、バリトンの声のキャラクターが破壊的(?)で、総じて威圧的な表現。ヴィオレッタが「私は女で、ここは私の家です」と警戒を示すのも無理はない乱入者ぶりだった。ジェルモンは息子と娼婦の仲を壊しに来たのであって、それ以外のことは考えていない。「ヴィオレッタはジェルモンに説得され、去ることを決めた」という物語ではなく、生殺与奪の暴君がやってきたので、組み伏せられたという物語になった。これは果たして演出なのか歌手の意図なのか…絶体絶命の境地にあって「娘のように抱きしめてください…」とヴィオレッタが抱き着いてきたとき、ジェルモンは「汚らわしい」と言わんばかりに、自分の上着の襟を整えるのである。ルチンスキーがエンリーコを演じたペレチャッコの「ルチア」(新国立劇場)を思い出した。冷酷で強引なバリトンをやらせたら、右に出る者はない演技力だ。

面白かったのは、ヴィオレッタが去った後のアルフレートとジェルモンの掛け合いで「プロヴァンス…」が、強い父と弱い息子の出口のないデュエットに聴こえた。強い父は「世間というものは…」と世界全体を代弁するかのように息子を諭すのだが、こんなに威圧的では説得というより、おしおきである。「私はこういう父に育てられなかったから、能天気に育ってしまったのか…」とつくづく自分の人生を反省した。

ルチンスキーのキャラクター作りは、オペラそのものを鮮烈に、立体的にした。演劇人として桁外れの天才で、こんな人は見たことがない。父と息子のやりとりの後、アルフレートはヴィオレッタ宛てのパリからの招待状を見つけて「そうはさせないぞ!」と激昂して走り去るのだが、まさにその短気な様子がジェルモンそっくりなのだ。サロンでヴィオレッタに札束を投げつける姿も、父の気性を表現している。それを高みから見ていたジェルモンが「お前は本当にわしの息子か。わしの片鱗もない」というのは、腸がよじれるほど凄い皮肉なのだ。札束を女性に投げる失礼で強引な男とは、ジェルモンそのものなのである。

マルコヴァのヴィオレッタは3幕でも胸かきむしられるようで、声楽的にも素晴らしいが、それよりも歌のある演劇における「女優の力」が並外れていた。作曲家の心の中に入り込んでいるような姿で、大きな無念と悔しさを抱えながらも、わが身の混濁した感情が祈りによって浄化されることを祈っている。一幕から優しく女主人を支えていた小間使いのアンニーナを、オペラアカデミー卒業生のソプラノ三戸はるなさんが演じた。三戸さんに照明が当たらないときも、ずっと彼女を見ていたが、どの瞬間もアンニーナでいたのは素晴らしいことだった。

ヴェルディのオペラのほとんどは、男女の愛の挫折を描いている。『ラ・トラヴィアータ』もそうだが、『アイーダ』も『ドン・カルロ』も『仮面舞踏会』も『オテロ』も『リゴレット』も皆、主役たちは愛することで不名誉な存在になり、貧しくなり、友や信頼や肉親の愛を失って、孤独に死んでいくのである。『ファルスタッフ』でさえ、愛は嘲笑され、洗濯籠に入れられて川に投げ込まれる。こうしたオペラを、執拗に書き続けた根拠に、ヴェルディの中で「この愛という不条理をどうしたらいいか」という苦悩がつねにあったからだと推測する。

愛が自分を不名誉にする…パヴァロッティのドキュメンタリー映画を思い出した。パヴァロッティがヴェルディをよく歌えたのは、同じ運命を背負っていたからなのではないか。世界を魅了し、通り過がりの人にさえ楽しい気分にさせ、舞台ではあれほど愛を軽やかに表現できる人が、愛のために苦悩し社会から叩かれた。

ヴェルディが素晴らしいオペラを書いたのも、パヴァロッティが素晴らしい歌を歌ったのも、愛に苦悩していたからで、現実では正論を言うことが出来ない窮地に追い込まれて、芸術の次元で凄い達成を見せる。

ラストシーン。蒼白な顔で死に絶えたマルコヴァは、「歌う女優」という言葉では軽すぎるほど、ヴェルディの魂を理解していたように見えた。カーテンコールでは、ルイゾッティがマルコヴァに薔薇の花を一輪捧げ、東響がハッピーバースデーを奏でた。10月7日はマルコヴァの誕生日だったのだ。10月10日のヴェルディの誕生日と、10月12日のサントリーホールの「誕生日」を思い出しながら、この夜のトラヴィアータにもたらされた祝福について考えた。主要歌手、指揮者の至芸は世界有数のオペラハウス鑑賞後の幸福感を凌駕するほど。10月9日に二回目の公演が行われる。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年10月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。