聖職者の性犯罪と「告白の守秘義務」

今月5日、欧州のカトリック教国フランスで、1950年から2020年の70年間、少なくとも3000人の聖職者、神父、修道院関係者が約21万6000人の未成年者への性的虐待を行っていたこと、教会関連内の施設での性犯罪件数を加えると、被害者総数は約33万人に上るという報告書が発表された時、ローマ・カトリック教会の総本山、バチカン教皇庁だけではなく、教会外の一般の人々にも大きな衝撃を与えた。報告書は独立調査委員会(CIASE)が2019年2月から2年半余りの調査結果をまとめたものだが、その余震はまだ続いている。

モーツァルトの「戴冠ミサ」が演奏される中、日曜日礼拝が行われた(聖シュテファン大寺院内で、2021年10月17日、オーストリア国営放送のライブ中継から)

フランスのジェラルド・ダルマナン内相は12日、仏カトリック教会司教会議議長のエリック・ド・ムーラン・ビューフォート大司教とパリで会い、教会の「告白の守秘義務」について話し合った。ダルマナン内相は神学論争をしたのではない。聖職者の未成年者への性的虐待事件が多発し、教会への信頼が著しく傷つけられる一方、教会上層部が性犯罪を犯した聖職者を「告白の守秘義務」という名目のもとで隠蔽してきた実態が明らかになり、聖職者の告白の守秘義務を撤回すべきだという声が高まってきたからだ。未成年者に対して性的虐待を犯した聖職者が上司の司教に罪の告白をした場合、告白を聞いた司教はその内容を第3者に絶対に口外してはならない。その結果、聖職者の性犯罪は隠蔽されることになる。

CIASEのジャン=マルク・ソーヴェ委員長(元裁判官)は報告書の中で教会の「告白の守秘義務」の緩和を提唱している。なぜなら、守秘義務が真相究明の障害ともなるからだ。

ローマ・カトリック教会の信者たちは洗礼後、神の教えに反して罪を犯した場合、それを聴罪担当の神父の前に告白することで許しを得る。一方、神父側は信者たちから聞いた告解の内容を絶対に口外してはならない守秘義務がある。それに反して、第3者に漏らした場合、その神父は教会法に基づいて厳格に処罰される。告解の内容は当の信者が「話してもいい」と言わない限り、絶対に口外してはならない。告解の守秘はカトリック教会では13世紀から施行されている。

ちなみに、カトリック教会では、告解の内容を命懸けで守ったネポムクの聖ヨハネ神父の話は有名だ。同神父は1393年、王妃の告解内容を明らかにするのを拒否したため、ボヘミア王ヴァーソラフ4世によってカレル橋から落され、溺死した。それほど聖職者にとって「信者の告解」の遵守は厳格な教えなのだ。

少し脱線するが、新型コロナウイルス感染対策としてスマートフォンで罪の告白をしたいという信者の申し出があった。それに対し教会側は、「スマートフォンでの罪の赦免は有効ではない。神の前で罪を告白し、赦しを得るためには対面告白が不可欠だ」と答えたという。対面告白はコロナ感染対策より優先されるというわけだ。

エリック・ド・ムーラン=ビューフォート大司教は6日、ツイッターで、「教会の告白の守秘義務はフランス共和国の法よりも上位に位置する」と述べた。その内容が報じられると、聖職者の性犯罪の犠牲者ばかりか、各方面の有識者からもブーイングが起きた。そこでダルマナン内相は司教会議議長に発言の真意を正す目的もあって呼び出したわけだ。ただし、同内相は司教会議議長と会合する際も「召喚」ではなく、「招待」とわざわざ説明している。

フランスの刑法では、犯罪行為を告訴しないことは許されない。同時に、職業によってはその内容を口外しない権利が保証されている、医師は患者の病歴や症状を第3者に口外してはならない。弁護士もクライアント(依頼人)の情報を他言してはならない守秘義務がある。

バチカンの基本的立場は明確だ。赦しのサクラメント(秘跡)は完全であり、傷つけられないもので、神性の権利に基づく。例外はあり得ない。それは告白者への約束というより、この告白というサクラメントの神性を尊敬するという意味からだ。その点、信頼性に基づく弁護士や医者の守秘義務とは違う。告白者は聴罪神父に語るというより、神の前に語っているからだ。「告白の守秘義務」は悪(悪行)を擁護する結果とならないか、という問いに対し、「告白の守秘義務は悪に対する唯一の対策だ。すなわち、悪を神の愛の前に委ねるからだ」という。

ダルマナン内相と司教会議議長の会合の内容は公表されていないが、同内相は、「いかなる法も国の法より上に位置することはない」と強調し、「未成年者への性的虐待を聴いた聖職者は警察に連絡してほしい」と呼び掛けたという。一方、司教会議議長は、「子供を保護することは優先課題であり、その点で全ての司教は一致している。教会は国の関係省と密接に協調していく」と述べたという。

フランスでは「政教分離」(ライシテ)が施行されている。ライシテは宗教への国家の中立性、世俗性、政教分離などを内包した概念であり、フランスで発展してきた思想だ。フランスは1905年以来、ライシテを標榜し、時間の経過につれて、神を侮辱したとしても批判を受けたり、処罰されることがないと理解されてきた。一方、教会側はライシテを理由に、教会の教義に基づく教会法を重視し、「この世の法」を軽視する傾向が見られた。

しかし、聖職者の性犯罪問題をきっかけに、国は宗教への中立性を放棄し、教会に「この世の法」を遵守すべきだと主張、教会側は教会法の修正を強いられ、「この世の法」に歩み寄りを示してきた。好意的に受け取るならば、国と教会(政治と宗教)はライシテの枠組みを超え、新しい関係を模索してきたといえるわけだ。そのプロセスの中でライシテの名目で認知されてきた「神を冒涜したり、侮辱する権利」への再考もテーマに挙げられるのではないか(「人には『冒涜する自由』があるか」2020年9月5日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年10月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。