真っ当な苦情と不当な教育
先日、ある高校教諭から「なぜ特進コースの生徒は早期選抜の指導を受けられないのですか」という保護者の苦情を知らされた。大学入試には学校推薦型や総合型など、早ければ年内に合否が出る選抜方式がある。
だが、高校現場にはいまだに年明けの一般選抜型(筆記試験)を善しとするペーパーテスト主義が根強い。そのため、特進コースに通う生徒等は、「見劣りする」年内入試を受けさせてもらえないことも少なくないのだ。子ども達の進路決定は、「どこに進むか」も「どう進むか」も束縛されているというわけである。
文句のなかった「ふつう」
コロナ禍以前は、こうした学校主導の進路決定は「ふつう」のことだった。大学受験だけではない。就職活動に目を向けても同様で、高校生は受験できる会社数が一社のみという「一人一社制」がルールとして定められているし、大学生でも保有できる内定数が一社のみという「一人一内定」をマナーとしている大学がある。
若者は、実質的に進路の選択肢が限定されているのだ。それでも、納得できる道に進めれば文句は出なかった。
コロナがもたらした健全化
ところが、コロナ禍を契機に改めて個々人がキャリアを問い直すこととなった。保護者の収入減や感染リスク等を鑑みると、受験数は減らして年内入試で早期決着を図りたいという心情は理解できる。また、企業の将来性が不透明化するなかで、内定を複数持って比較検討したいという大学生を非難はできまい。何れも、切実な状況下での合法的で合理的な選択だからである。
このように、コロナ禍は、従前は休眠中だった、自由にキャリアを選択したいという真っ当なニーズや、そのための支援を受けたいという素朴なリクエストを呼び覚ました。危機が思考を芽吹かせたのだ。
キャリアの決定権を本人に
これまでは、生徒や学生、そして保護者が学校任せだった面もあるだろうが、変化への柔軟な対応力や自ら考え行動する力を重んじるのが教育界ならば、今回のようなニーズやリクエストは歓迎すべき声である。今後も学校都合で子ども達の幸福より進路実績を重視するならば、不都合と言わざるを得ない。
自分で自分の人生を決められないのは不当であるし、興味・関心のないことを考えても思考力は育たない。この点、自らのキャリアを考えることは、自ら考える力を育む。だとすれば、キャリアの決定権は本人に返上すべきではないだろうか。