独禁法二題:「競争」至上主義?

最近の独禁法の話題から2つ取り上げて論じてみたいと思う。

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まず、直近のものとして、日本経済新聞の10月22日の記事(「独禁法運用、オランダが指針案――SDGs、カルテル適用外か、環境で足並み、判断難しく(真相深層)」)より。

世界的にSDGs(持続可能な開発目標)への流れが強まるなか、公正な競争を通じて消費者利益を守る独占禁止法の根本原則が見直しを迫られている。環境対策などで社会全体の利益のために企業が足並みをそろえると、カルテルとみなされかねないためだ。硬直的な独禁法の運用が公益を損なわないよう、欧州を中心に議論が始まった。

「欧州の議論をリードしているのはオランダの競争当局」で、今年1月、「環境保護などを目的とした企業間の合意や連携」に対する独禁法の適用指針案を公表し、それによると、環境被害を防ぐための合意について「その商品・サービスの消費者だけでなく、社会全体に利益があれば、カルテル規制の適用を免れる」と明示したとのことである(以上、同記事)。

日本の独禁法には「公共の利益に反し」という要件があり、カルテル行為によって何らかの競争制限が生じた場合に備えて、それを正当化するための法的準備がなされている。しかし、この要件については公正取引委員会、そして多くの学者は重視していない。実務においては「競争を実質的に制限する」という要件で正当化問題を扱うのが通常だ。

もちろん、後半で言及するリニア談合事件のように、違反が疑われる事業者(同事件では被告)側がこの要件を持ち出せば、裁判所はその限りで判断する。裏を返せば、それに止まるものである。どうやら、「公共の利益」概念を持ち出し、競争制限の正当化が論じられてしまうと独禁法が「骨抜き」にされてしまう、という危惧があるようだ(形式的な問題としては、企業結合規制や事業者団体規制においては公共の利益要件が存在しない、という点も指摘される)。

しかし、こうした立場であっても、先ほど触れた「競争を実質的に制限する」という要件の認定に際して、競争制限が正当化されるかどうかが議論されるのであるから、あまり意味のある主張ではないようにも思われる。

ただ、「公共の利益」という一見「競争」概念の外にある要件に対する「毛嫌い」は理解できなくもない。独禁法はあくまでも「競争」に拘る立法であり、仮に競争以外の要素を持ち込んで正当化するというのであれば、それは他の立法によって競争を「法的に、強制的に」制限するべきだ、という価値判断は理解できなくもない。独禁法が考慮するのは、競争を制限する一方で何らかの意味で競争が促進されるような場合であって、そのためにはわざわざ公共の利益概念を持ち出さなくてもよい、そういう発想が「独禁法に係る人々」の根底にあるように思われる。これは独禁法が選択した、ある種の「競争」至上主義といってよい(当然、優越的地位濫用規制が高いプレゼンスを発揮している現状をどう説明するのか、という問題が別途生じることになるが)。

だからSDGsのような競争の射程外の問題に正面から向き合うことになると、思考停止になってしまう。競争制限を徹底的に毛嫌いする「競争」至上主義は、あからさまなカルテルや 入札談合を独禁法が扱っている限りにおいては問題にならないが、事業者が「社会のために」「環境のために」「人権のために」競争制限を積極的に行う、「新しい資本主義」を指向した時代においては、「自分の利益ばかり考える事業者」が「激しく競い合うことによって経済的効率性が生まれる、経済が発展する」という「分かりやすい」前提で語られてきた独禁法の「ある種の限界」を露呈させることになるようにも見える。

欧州で共通のコンセンサス形成へ向けて、積極的にこの種の議論がなされる環境があるとするとそれは何か。そもそもの欧州市場という特性、CSRやステークホルダーに対するアプローチや把握の仕方の相違等、理解すべき点はいくつもあるだろう。公共調達法制(指令)においても「経済性」のみならず「環境」「社会」的視点を正面から取り込む欧州である。その独禁法(競争法)も、資本主義の新たな展開に対して柔軟性を持っているだろうことは容易に推測がつく。

すでに言及したように、以下の後半では今年東京地裁判決が出たリニア談合事件について触れる。同じく日本経済新聞3月2日の記事(「大成・鹿島元幹部に有罪、地裁判決、リニア談合、隠蔽『組織的に』」)より。よく知られた事件なので、事案の解説は不要であろう。

リニア中央新幹線の建設工事を巡る談合事件で、独占禁止法違反(不当な取引制限)罪に問われた大成建設と鹿島の元幹部2人、法人としての両社の判決公判が1日、東京地裁であり、楡井英夫裁判長はいずれも有罪を言い渡した。

判決は、発注に当たりJR東海が「見積価格を重視し、自社の恣意が入り込みづらい方法を採るなどした。コストダウンの追求で各社を競争させる意思を持っていた」と指摘し、「JR東海の差配で受注できるのは実質的に1社だけに限られていた」とする弁護側の主張を退けたとのことである。併せて「国を代表するスーパーゼネコンが国家的プロジェクトで受注調整をしたことは、建設業界への国民の信頼を著しく損ない、社会に与えた影響も大きい。両社は組織的な罪証隠滅工作も行った」とも指摘した(以上、同記事)。

記事では触れていないが、重要な点を二つ追加しよう。

第一に、判決は、ゼネコン間の調整行為の背景となったとされる「事前検討を行うなどした事業者が受注をすることが本件各工事の施工の安全性・効率性には資するものであった」ことを認めている点である。ある種の「棲み分け」の背景となった、前代未聞の大規模、超難度工事のためにJR東海に事前に協力する準備的な作業(事前検討)の有用性は裁判所も認めるところだった。

第二に、発注者であるJR東海側に存在する問題にも判決は言及していることである(以下は、量刑のところで指摘されているものである)。

今後同様の事態を招かないためには,本件に関与したスーパーゼネコン各社の徹底した意識改革が求められることはもちろん,発注者の側も,事前検討段階を含め,透明性の高い発注手続を整備するなどして,国民に対しより可視化された公正な発注を実現するよう努める必要があると考えられる。

とはいえ、判決は、JR東海が「本件指名競争見積手続をとって被告会社等4社に競争させるという判断をした以上、それを受注事業者である被告会社等4社の側で一方的に否定し、競争の枠組みを破壊することを許すまでの事情があるとはいえない」とし、「見積価格を高止まりさせ」、「受注価格を引き上げる」ことは、「競争によるコストダウンを図ろうとした」発注者の利益に著しく反する(それはリニア中央新幹線の利用料金に影響するものである)ものであるとして、この主張を退けている。

要するに、これは、発注者が競争入札(あるいはこれに類似する方法)を敢えて採用した以上は、競争がそこに存在することになり、それに反する行為を事業者側がすれば、正当化できない競争制限となるという、司法の強いメッセージである、といえよう。この規範的態度は公共契約の分野においてこれまで貫かれてきたものである。一度、発注機関が競争入札を採用した以上(それは企画競争型の随意契約でも同様だろう)、独禁法はこの競争を徹底的に守るということだ。競争入札を採用した張本人の発注機関が競争制限を許容する発言をする訳もなく、事件化すれば競争制限の被害者として振る舞うだろうから、正当化の余地はほとんどないといってよいだろう。

現代における公共契約に顕著なのは「競争」至上主義だ(競争入札至上主義と言い換えてもよい)。リニア談合事件は官公需ではなくあくまでも民需ではあるが、この「競争」至上主義の延長線上にある。そして「競争」至上主義は独禁法と相性がよい。企業のコンプライアンスはそうした独禁法の習性をよく理解したものでなければならない。業界の都合はもはや通用しないと考えた方がよい。