政治で社会を変えることのリアリティについての一考察

政治家志望だった過去

11月15日の青山社中設立11周年を前に、まずは告白から入りたいと思う。

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私は政治家になりたかった。それもかなり強烈に。中高生の頃、読み込んでいた数々の本、毎週見ていた数々の政治討論系番組の影響で、ある日突然、一目ぼれ的に「政治家になる」ということに恋い焦がれてしまったのだ。当時の日本は、勢いとしては米国を凌ぐ経済大国で、中国のことは遥か下に見ていた。しかし、図体の割に国際的な存在感が低く、また、過度な競争社会の中での閉塞感があった。そんな社会を見て、「これを大きく変えるには、政治家しかない」と強く信じ込んだ。

ただ一族にも親の知人にも政治家はおらず、財力その他から考えても政治家は遠かった。高嶺の花の女性に告白できないような状態下、また、恥や衒(てら)いも邪魔して、ごく親しい人にしか内心は明かさなかったが、その後も「政治家になりたい」という思いは募る一方であった。高校卒業時に友人らと校庭の片隅に埋めたはずのタイムカプセルには、明確に政治家になって日本を大きく変えると書いたはずだし、そもそも埼玉の片隅の無名校から、かなり強硬に東大法学部を目指したのも(それまで私の出身校からは、ただの一人の先輩も東大文一(法)に合格していなかった)、1980年代終わり~90年代初めの当時、政治家トップの総理を目指すには東大法学部→官僚→政治家というコースが良いと考えるのが常識的だったからだ。

戦後の総理大臣といえば、当時、幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、中曽根康弘の各氏などを思い浮かべるわけだが、皆、「東大法→官僚→政治家」というルートを歩んでいる。鳩山一郎(東大卒だが官僚ではない)、田中角栄、大平正芳(官僚OBだが東大卒ではない)、鈴木善幸の各氏は、自分の中では例外でしかなかった。

私が高3の時の91年に総理になった宮沢喜一氏を最後に、まさか、その後約30年間も、東大法学部卒の官僚OBが一人も総理にならないとは、当時予想できなかったが、いずれにしても、総理大臣という船頭こそが、日本丸のかじ取りをしているものと解釈し、そのポジションに立つことこそが国造りの第一歩に他ならないと感じていた。

そんな私は迷いもなく東大生になってすぐに弁論部(一高東大弁論部)に入部した。早大雄弁会出身者の政界での存在感の大きさを見て、弁論部での活躍こそが政治家への道の近道だと信じた。1年生時に、志願して雄弁会を擁する早稲田大の大隈杯弁論大会に出場し上級生たちを抑えて優勝したりもした。1年生の冬には産経新聞が主催していた土光杯全日本学生弁論大会で、2~4年生の有力弁士を差し置いてフジテレビ杯(3位)にもなった。副賞の往復航空券を使ってのアメリカ初渡航の際の帰路に強烈に意識したことを覚えているが、順当に官僚になって政治家になろう、という想いは強まる一方だった。

しかし、学年を重ね、当時ブームとなっていた日本新党(初代党首の細川熊本県知事が、あれよあれよという間に総理になるなど結構な盛り上がりであった)の若手政治家などに、触れ合えば触れ合うほど、また逆に、学部やサークルOBの官僚の先輩と語らえば語らうほど、本当に日本を動かしているのは、また、動かすべき人材は、本当に政治家なのだろうか、実は官僚なのではないか、という想いを強くしていった。もしかしたら、政治家にはならずに一生官僚のままの方が良いかも知れない、という考えを持ち始めつつ、大学を卒業し、通商産業省に入省したのが1997年の春である。

政治や行政の限界

そんな私は、それから四半世紀(25年)が経過しようかという今、衆院選の真っただ中に新潟県妙高市にいて、政治の喧騒から遠く離れた場所で、このエッセイを書いている。不思議と言えば不思議だが、自分の中では当然の帰結にも見える。略述すれば、以下の歩みの結果である。

通産省入省後、官僚として約14年を過ごす中で、私は益々、順当に政治家になって政権の要路に就くことが、社会を大きく変えることにつながると思えなくなっていった。また、同時に、官僚が社会を大きく変えるというリアリティも持てずにいた。

官僚として政治家を支えること、より正確には、政治(の干渉)という関門もくぐり抜けつつ官僚として制度を変えていくことには、とてつもないコストがかかることを認識せざるを得なかったからだ。私が所属していた経済産業省はやや例外という傾向があるが、そもそも官僚という存在は、何かを大きく変えるというより、安定的に保つ、というイナーシャ(慣性)を持つ。

物事を変えにくい「縦割り組織間の相互牽制構造」を打破すべく霞が関の構造改革を主張し、役人としては禁じ手に近い形で実名入りでの改革案の提示(出版)を仲間と共に行った。一定の成果を得たと自負しているが、それでもやはり、大きな構造改革は難しいという敗北感も味わった。

結局、政治という道は選ばずに、官途も捨て、2010年の11月に、日本人の劣化、各地域の衰退、政治・議会の機能不全、グローバル展開の弱さなど、日本の衰退・弱点を包括的に解決すべく、「日本の洗濯」を標榜した坂本龍馬の亀山社中を見習って、青山社中を設立した。政策づくりを通じて政治・行政には関わり続けているが、どっぷり浸かるわけではなく、総選挙の最中に、喧騒から遠く離れて妙高の静かなリゾートホテルでエッセイを書いている自分がいる。

政治は大事だとは思いつつも、今回の総選挙を経て、仮に与党が大勝しようとも、逆に大敗しようとも(野党が大躍進しようとも)、いずれにせよ、混乱や停滞をもたらす可能性、つまり、負の影響の方が強い気がしてならない。どうも政治という手段だと、仮にブームは起こっても、社会が大きく変わるリアリティを持てずにいる。

過去30年を振り返ると、日本新党、小泉政権(自民党をぶっ壊す)、民主党の政権交代、異例な長期政権となった安倍政権など、数々の「ブーム」はあった。政権を取るには至らなかったが大阪維新(日本維新)や都民ファースト(希望の党)などの盛り上がりもあった。かなり頑張って国益を守った政権もあるが、社会を大きく変えるには至らず、良く解釈して「頑張ってしのいだ」というところが関の山だ。これは、批判ではない。

そんな思いの中、日本社会を根底から大きく変えるにはこれしかない、と政治(家)でもなく、行政(官僚)でもなく、第三の道を選んで青山社中という選択肢でドン・キホーテのような歩みを続けているわけだが、後悔は全くない。

ただ、最近、強く想うことは、衰退産業かも知れないが、また、大きく日本を変える力はないかもしれないが、それでも政治や行政は引き続き大切な要素ではあり、ここを意識せずしての日本の大改革もまた考えにくいということだ。

「政治」の相対化/総体化

そもそも社会を大きく変える必要があるのか、という重要論点があるが、紙幅の関係もあり、ここには深く立ち入らない。ただ、少子高齢化、地域の衰退、財政悪化、相対的な貧困層の増加、その根底にある人材の劣化、等々、何を見てもかなり根底からの改革をしないとこの国・社会は立ち行かない気がしている。弥縫策ではもう持たない、というのが私の見立てだ。

そんな中、政治家になり政権与党の一員になったとしても、また、官僚として出世を重ねて仮にトップ(事務次官)になったとしても大きく日本を変えることは困難という現実。日本の中枢と呼ばれる世界の近くに生息しつつ、その事実を突きつけられながらも、同時にまだまだ政治・行政というところの意味や重要性も意識せざるを得ないところに私はいる。

この現実を前に、私は、青山社中は、全体をどう理解し、どう歩むべきであろうか。唐突だが、私は「ボールパーク・アプローチ」が大事だと考えている。一言で言えば、政治や行政を相対的に捉えるということである。表現を変えれば、様々な事象・可能性を総体的に考える中の一つに政治・行政を位置づけるというアプローチである。

たまたま留学時代の私の知人が取締役として中核的に携わっているのだが、日本ハムファイターズは、ボールパーク構想というものを掲げて計画を進めている。(HOKKAIDO BALLPARK F VILLAGE)本拠地を札幌ドームから、北海道は北広島市に移し、32ヘクタールという広大な敷地の中に、球場だけでなく、住居、ホテル、研究施設、教育施設、エンタメ空間、自然体験場などなどを盛り込み、大きな街づくりをしてしまう、という壮大な構想だ。既に建設が進んでいる。

言葉を選ばずに言えば、日本における野球は、衰退産業であると言える。他のスポーツの盛り上がりなども受け、「子ども×スポーツ=野球」とも思われた過去の状況、国民的に王・長島などに熱狂した時代から見て、相対的に野球への注目度・関心は低下していると言えよう。戦後日本の政治行政が歩んできた道と似ていなくもない。

そんな野球を北海道の地で盛り上げるべく、日本ハムファイターズは、もしかすると今回の新庄氏への監督の交代もその一環なのかもしれないが、総体的に物事をとらえて、さまざまな機能を全体の中に入れ込むという大きなアプローチをとっている。単に球場を移転して盛り上げるのではない。球場は、全体のごく一部に過ぎないという、新たな「ボールパーク」を創ろうとしている。

政治・行政に活路があるとしたら、また、日本を大きく変革しようとしたら、あたかもボールパークのように、「社会全体をこのように変えていく」という大きな風呂敷の中に、政党などを位置づけて進んでいくしかないのではないだろうか。

リーダー(始動者)育成、日本各地の経済的活性、政策を中心とした政治のサポート、海外との交流の促進、と言った、これまでの約11年での青山社中の歩みを総体的に捉えて見つめなおし、その中に、政治を相対的に位置づけること。単に政治ブームを起こすのではないアプローチがおぼろげながら見えて来た。地場を少しずつ固め、誰も見たことのない景色が見える高みを目指して頑張って行きたい。