COP26を失敗させた気候正義という義務論の破綻

藤原 かずえ

義務論が飛び交ったCOP26

前回に続き、COP26でも会議参加者の議論は見事に噛み合いませんでした。その一番の要因は、各国の政治家や活動家が自説を主張するための手段として、反証不可能な倫理的価値観である「気候正義 climate justice」を振りかざすなど、前提を持たないアプリオリな【義務論 deontology】を説得の道具とする傾向がいっそう増していることによります。環境活動家の最大のアイコンで【感情に訴える論証 appeal to emotion】の使い手であるグレタ・トゥンベリ氏のアジテーションも相変わらず激しく、今回口にしたのは「もうつべこべ言うな。 No more blah blah blah」でした。

ここで、義務論とは、カントが提唱した倫理規範であり、「自分の意思により、自分の行為が普遍的法則となるよう行為せよ」とするものです。この倫理規範は「もし~ならば~すべきである」「もし~ならば~すべきでない」という形式を持つ【仮言命法 hypothetical imperative】ではなく、無条件に「~すべきである」「~すべきでない」という形式をもつ【定言命法 categorical imperative】という命令に無条件に従うものです。例えば「誰かが困るから嘘をついてはならない」のではなく「嘘はつくべきでないから嘘をついてはならない」のです。つまり義務論は前提のない倫理規範と言えます。

気候変動の問題においては、パリ協定自体が「各国が削減目標を独自に策定してそれを守る」という各国の自主性に委ねるものであり、まさに義務論そのものと言えます。前提のない義務論を否定可能なのは前提のない義務論でしかなく、COP26は義務論が支配する会議となってしまったのです。

欧州を中心とする190の国・企業が「石炭火力からクリーンエネルギーへの移行に関する共同声明 Global Coal to Clean Power Transition Statement」を誓うことで前提となる根拠なしに石炭火力に絶対悪の烙印を押して廃止を迫り、会議の議長国である英国のジョンソン首相も前提となる根拠なしに石炭火力の早期全廃を要求しましたが、最終的にはインドが前提となる根拠なしに「段階的廃止」に反対し、「段階的削減」という表現で合意に至りました。要は義務論を展開する限り、論理が介在する可能性はないのです。

功利主義に基づく気候変動対策

このようにドツボにハマった気候変動対策会議に必要と考えられるのが、前提を持つ倫理規範である【帰結主義 consequentialism】の考え方です。帰結主義とは「行為によって生じる結果を考慮して行為せよ」とするものです。この帰結主義の代表的な考え方の一つが「行為によって生じる幸福を最大化、あるいは不幸を最小化するよう行為せよ」とする【功利主義 utilitarianism】です。ここでは、この功利主義に基づいて気候変動対策を考えてみたいと思います。

功利主義などの帰結主義の議論においては、まず最大化の対象である幸福と最小化の対象である不幸を数量化する必要があります。

人間は【自由 liberty】【幸福の追求 the pursuit of happiness】を行うことで固有の【生命 life】を全うする生物であり、自由な生産活動を通して幸福を得ようとします。その意味では、生産活動によって得られる利益を最大に、生産活動によって失われる損益を最小にすることを目標とするのが妥当です。

気候変動問題において、人間の生産活動によって得られる利益を表す量として、世界各国の【国内総生産 GDP】があります。この量は、けっして十分ではないものの、人類の持続的発展という幸福追求の生産活動への貢献の一次近似となり得る世界共通の【尺度 measure】であると考えられます。

一方、人間の生産活動によって失われる損益を表す量として、人間の生活の場である地球に気候変動をもたらすと推察されている【温室効果ガス排出量 GHG emissions】、とりわけ【CO2排出量 CO2 emissions】があります。ちなみに、このCO2排出量が損益であることは必ずしも科学的に完全に立証されたわけではありませんが、ここでは便宜上これを損益と仮定します。

さて、功利主義は【公平性 fairness】という制約条件の下に【幸福 happiness】という目的関数を最大化させるものです。ここに、国民1人が平均 Pmean という生産量をもつ人口 N 人の国があるとします。この国の幸福の総生産量 S は次式で与えられます。

S = N Pmean

ここで【国民総生産 GDP】Y とすると、

Pmean = Y / N

であり、両式から、

S = N Y / N = Y

となり、対象とする国の幸福の総生産量 S はGDPと一致します。

変動する世界経済において、機会の平等(公正な競争)に基づく経済の公平性を保つためには、各年ごとにGDP(Y)当たりの【CO2排出量 emission】(E)、すなわち【CO2原単位 intensity】E/Y)の許容値(C)を設定して各年の削減目標とするのが妥当です。【CO2削減率 reduction rate】Rは次式で計算されます。

R = ( C Y – E ) / E

このとき各国で得られるCO2排出量の許容値 E(1-R) の世界における総計値が、気候変動に許容できない影響を与えるCO2排出量の値と一致するとき、各国の限界CO2削減率(Rctitical)が逆算によって求められることになります。

なお、留意すべきは、各年におけるGDPに対してCO2削減率を設定することです。国によってGDP成長率が異なるので、現在の「2013年ベースで○○%の削減」という設定方法は公平ではありません。

各国のCO2削減率のシミュレーション

次の表は、2020年においてGDPが1兆ドルを超える国々に対して、GDP、CO2排出量、CO2原単位、CO2原単位許容値ごとの削減率を示し、CO2原単位が大きい順に並べたものです。

まず、CO2原単位で見れば、日米欧は優等生であり、新興国のCO2排出がかなり優遇されているのがわかります。新興国のCO2原単位が大きいのは【比較優位 comparative advantage】の影響による生産物の違いが関係しているので単純に倫理を問うことは倫理違反です。ただし、1人当たりGDPが既に1万ドルに達して先進国となっているロシア・中国・韓国などが新興国という名の下に上位にランキングされているのは経済的にも環境的にも明らかに不公正であると言えます。

欧州のCO2原単位が低いのは、大陸の中央に位置するフランスの原子力発電所をバックアップ電源にして電力を融通するセーフティネットが構築されているため、再生可能エネルギーを低リスクで導入できたために他なりません。この恩恵を受けている欧州各国はベースロード電源を石炭火力に依存しなくても安定供給が可能なため、石炭火力廃止を主張するのは自己本位な合理的行動と言えます。

次にCO2削減率を見ると、CO2原単位許容値を200t/百万$に設定すれば、日米欧が殆ど削減しなくても、世界全体のCO2削減率は50%になります。つまり、重要なのは、世界の新興国・開発途上国に対して一人当たりGDPが高い先進国がCO2削減を経済的・技術的に援助することが最も効率的なCO2削減方法であると考えられます。なお、既に一人当たりGDPが高いロシア・中国・韓国は自分の努力で削減を行う必要があります。彼らは既に先進国であり、新興国ではありません。すぐにでも日米欧並みの水準を目指す必要があると考えます。

さらに、CO2原単位許容値を100t/百万$に設定すれば、CO2排出量は現在の1/4になりますが、そのハードルは高いと言えます。いずれにしても、急激なCO2排出量の削減は、逆に多くの人命を失いかねないので、時間の経過とともにCO2原単位許容値を高い値から徐々に低い値に設定することで削減を実行していくのが現実的と考えます。

日本の取り組み

上記のような観点から見ると、COP26において岸田首相が発表した日本の気候変動対策への取り組みは、世界のCO2削減に対して効率的に貢献する戦略的なものであると考えます。岸田首相は、開発途上国にとって必要不可欠な火力発電の活用を主張した上で、莫大な途上国支援を約束しました。環境NGOのネットワークCANは日本に対して「本日の化石賞(2位)」を贈りましたが、日本政府はこの軽薄で無責任な揶揄に対して真正面から反論すべきです。

石炭火力の完全否定は、世界各地のエネルギー供給の地域特性を全く配慮しない傲慢極まりない主張と言えます。発電のベストミクスは地域特性に依存するものであり、内部社会に対する人権侵害や外部社会に対する付加的な損害を与えない限り(いわゆる公共の福祉を害しない限り)、いかなるエネルギーを利用することも【経済的自由権 economic freedom】の行使であり、外部社会から干渉される筋合いのものではありません。功利主義でも、他者に危害を与えない限り自由に行動可能であるとする【他者危害原則 to prevent harm to others】が存在します。倫理的な観点からも、石炭火力を全廃することは必要条件にはならないのです。

大規模な蓄電システムの構築が経済的に困難な中、日本のような島国は、欧州のように他国からの電力の融通を得ることはできず、太陽光・風力といった自然エネルギーのシェアが高まるほどバックアップ電源としてのLNG火力・LPG火力が必要となります。また地震活動が活発であるため原子力発電所の立地もある程度規制され、SMRを導入しない限り、ベースロード電源となり得るのは石炭火力のみです。このような条件下において、根拠のない義務論を振りかざして国際的な圧力を加える行為は極めて理不尽と言えます。

なかでも、非常に危険なのは「気候正義」という概念が独り歩きして、活動家が正義を定義して、石炭火力など自分の考えに反するものを排除していることです。そもそも、この概念は、人間の生産活動に起因した気候変動によって命や富が失われることを前提にしたものですが、人間の生産活動は科学の発展を生み、貧しい人の命を救い、文化的な生活を将来の人々に無償で提供します。

また温暖化自体にもメリットが存在します。現在の地球環境では、熱中症による死者よりも凍死者の数が圧倒的に多いのです。

Overall cumulative exposure–response associations in 13 cities(GASPRRINI, Antonio et al.)

例えば、病院で助けられる命は尊く温暖化で助けられる命は尊くないのか、温暖化によって耕作面積が増えて食料供給量が増えることは悪なのか。世界が納得する前提の批判的分析が必要不可欠です。【現状維持 status quo】を正義とする政治家や活動家の義務論だけに基づいた議論では問題は解決しません。


編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2021年11月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。