『失敗の本質』精読検証の第2回です。今回は同書と最初の出版当時(1984年)の読者との間に共有されていたと思われる「暗黙の前提」の一つについて考察します。なぜかというとそれが同書の分析全体に大きな影響(初期位相と原点との乖離)を及ぼしているからです。つまり「開戦原因の認識に表象される、戦後40年経過した時代の歴史観」とその影響について考えて行きます。
(前回:「失敗の本質」を精読①)
同書では、開戦原因を分析対象から除外しておりますが、その説明の中で「開戦原因」を次のような問いの形式で表現しています。
『本書は、日本がなぜ大東亜戦争に突入したのかを問うものではないからである』(P3)
同書としては、大東亜戦争には『日本が突入した』という能動態の認識です。
一方、政治的イデオロギーの影響を排した(と私が考える)現代的な開戦原因の捉え方は、
似て非なる二つの問い
上記二つの問いは同じ事象を指し示していますが、その姿勢には大きな差異があります。並べます。
『日本がなぜ大東亜戦争に突入したのか』(1984年「失敗の本質」)
『日本がなぜ対米開戦を回避できなかったのか』(2021年「戦争という選択」他)
「日本が(能動的に)突入した」とする認識の前提として、次のような時代背景を考慮することは必須です。敗戦から40年近く経過した1984年当時、戦争前後の時期に日本を指導する立場にいた人々は、概ね社会の第一線から退場していました。そして戦争時は若年だったために受動的に直接経験した世代は、このころでは40歳以上となり、言論をはじめ日本の社会において指導的立場の中心に立ちました。
当時社会をリードしていた世代では「戦争の責任は日本にあり、とりわけ『軍部』が日本と国民を誤導して悲惨な目に合わせた」という歴史観も有力だったのではないでしょか。ここには学問と教育の分野に多大な影響を及ぼしていた特定の政治的立場とマスメディアの影響があっただろうと推測します。
例えば、70年代には『中国の旅』(本多勝一著)が出版されその後論争が起き、80年代前半には教科書問題などが起こり、『悪魔の飽食』(森村誠一著)がベストセラーとなるなど、いわゆる『イデオロギー史観』の全盛期でした。
一方それから更に37年が経過した2021年現在、国民の構成もかなり変わりました。つまり、戦争経験者は70歳台後半以上になり、直接体験を持つ国民は15%未満(総務省統計局2019年14.7%)となりました。(人口推計 2019年(令和元年)10月1日現在 概要 (stat.go.jp))
多くの国民にとって「太平洋戦争(大東亜戦争)とは伝聞により教えられた歴史の一部」であり、今ではこちらの世代が圧倒的多数派となりました。
この変化により、体験に基づく怨嗟などの「感情に基因する初期位相と原点との乖離幅」が縮小しました。また、1989年の天安門事件に続き1991年のソ連崩壊(破綻)によって、共産主義の実相がかなり暴露されました。これらを機に、教育やマスメディアによる偏った歴史観も一般国民からの支持を失いつつあるのが現在の動的実勢(モーメント)と認識します。(なお、この認識には私の個人的な認知の歪みが入っているので、読者各位の認識とは差異があることが自然です。)
二つの問いに潜在する大きな違いとはつまり、それぞれの問いが発信された時代の歴史認識の差異のことです。『失敗の本質』もまた、1984年という時代の歴史観に立脚した視座から逃れられておりません。
レシプロ飛行機では大気圏を脱出できないように、同書もまた時代の空気に包まれてこそ推進力を持っていたのでしょう。
空気固定装置としての『失敗の本質』
ところで同書は40年近くにわたり読み継がれておりますが、内容の大幅更新はされたのでしょうか。筆者の手元にあるのは残念ながら初版ではなく、ダイヤモンド社の第55版(2001年)ですが、それと2021年現在の電子書籍版との間に、趣旨的な差異は確認できませんでした。特徴的な記述部分もそのままです。(例:P98「塞源地」文脈上策源地の意味か?)
しかしロングセラーとして今も読者を増産しているこの状況は、前述したような時代(1984年)の空気を現代に供給しているということにほかなりません。『「失敗学」のバイブル』(産経新聞論説委員長記事)と持ち上げられ、あたかも『虎の巻』や『聖典』かのように「祀られている」状況には、2つの観点から本当に妥当な評価なのかどうかという疑問を(私は)抱いております。
第一に、もし誤った教訓がこのまま歴史的「箴言」として文化的な遺産に昇華した場合には、それは後世に「人工的な禍(≒迷信)」をおくることになってしまいます。
第二に、史実が遠くなる一方の未来において、同書の(誤りを含む)戦闘史の記述部分が、歴史的に「正しい」記録として後世まで伝承されることは、「時代を読み誤る陥穽」をしかけることにならないか、という懸念を抱きます。
また、その研究に強い影響を与えた『決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析』(グレアム・アリソン著)は、1971年の刊行以来「政治学の古典」として長く読み継がれてきましたが、その後秘密指定解除などによって米ソの中枢内部での新たな事実関係が解明されたことをうけて、1999年にほぼ全面的に改訂されました。
今や『失敗の本質』も改訂されるべき時ではないでしょうか。
なお、この論点については『2章 失敗の本質』『3章 失敗の教訓』を分析する際に、改めて深く論じたいと考えます。
むすび
今回は潜在意識レベルに沈潜している時代ごとの歴史観の差異に焦点を当てました。
私は、「対米開戦の回避に失敗したこと」の中には、日本が犯した『失敗の本質』の最重要要素が含まれていると考えます。従って、この分析を回避したまま「失敗の本質」を分析している点は、同書の「片」手落ちであると考えます。「動力推進式飛行機の本質をグライダーの分析に求める」類の不完全さです。
なお、「開戦回避の失敗」は日本の迷走に加え、米国、英国、ドイツ、中華民国そしてソ連の視点を研究しない限り深い洞察はできないでしょう。今尚研究は途上ですから、現在の定説は暫定説であり、真相の解明は、研究者によって今後もつづくことでしょう。
切り出したばかりの生木は、水分を多く含むので乾燥の推移にともない変形する一方、十分乾燥させた「枯れた木」ならば形態が安定しますので、建設資材として使えます。
第二次世界大戦の終結から76年経過した現在、戦前戦中生まれの人がかなり少なくなりましたが、残された史資料は、確かな歴史観を組み立てるための分析素材あるいは部材として、程よい「乾燥」具合になってきたのではないでしょうか。
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<主な参考文献>
『失敗の本質』(ダイヤモンド社単行本およびKindle版)
『戦争という選択』(関口高史著、作品社)
『大東亜戦争全史(一)(二)』(服部卓四郎著、復刻版)
『太平洋の試練(上)』(イアン・トール著)
『真珠湾までの経緯-海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』(石川信吾著、中公文庫)
『昭和天皇独白録』
『日独伊三国同盟』(大木毅著、角川新書)
『戦史叢書大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』各巻(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社)
『戦史叢書大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯』各巻(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社)
『わが闘争』(アドルフ・ヒトラー著)