社会参加について①:大規模会食の意義

私の北米生活30年の無数の驚きの中の一つに会食文化があります。当初、私はアメリカ、シアトルに住んでいたのですが、当時の知り合いのアメリカ人がキワニスという社会奉仕団体のランチ会があるから一緒に行こうと誘われました。数百人参加していたと思いますが、驚いたのは例会のランチを一定回数欠席すると会員資格をはく奪されるのでよほどのことがない限り自分の最優先の予定としているという点でした。

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アメリカやカナダにはこのような大きな社会奉仕団体がいくつもありますがどこも非常に活動が活発なのはキリスト教的ともいえる参加啓蒙が背景にあります。ところがこれはキリスト教に限らずあらゆる宗教背景の社会奉仕団体に同様の傾向がみられます。私が金銭的にほんの少しだけサポートしているイスラム系の団体からもイベント参加へのお誘いは毎年、あります。

また今は退会していますが、バンクーバー商工会議所のイベントは毎月いくつものイベントがあり、特にスピーカーズ プログラムのランチは会のイベントの目玉で、中央政権幹部、州首相、中央銀行総裁や幹部、アメリカ、カナダの大企業のトップなど普段、まずお伺いできない人たちの講演を比較的安い金額でランチを食べながら参加することができるのです。

それらランチョンイベントにはずいぶん参加してきたのですが、ある共通点があります。それは日本のランチとくらべてとても貧弱なイメージがあるからです。ほぼ葉っぱだけのサラダ、鶏料理、形ばかりのデザートにコーヒー/紅茶が基本形です。宗教的理由から豚と牛をメニューに選ぶことはまずありえず、魚は高いし白人受けしないので無難なチキンになります。

ではスーツをパリッと着こなしたようなエグゼクティブがホテルの会場でなぜ貧弱なランチを食するか、誰もそこにメスを入れたことがないと思います。答えは集まることに意義があり、食事は二次的なものである、という発想です。

30年前に「ブラウン バッグ ランチ」なるものが会社の会議室などで開催されていました。何のことかと思いきや、普段、自分でもってきている自家製ランチは茶色い紙袋に入れてくる人が多いのでその自分のランチパックをもって会に参加してよ、という趣旨だったのです。会が始まるとおもむろに自分の弁当やサンドウィッチを出し、それを食べながら講演者の話を聞くんです。つまり、参加することに意義があり、そのものなのです。

集まりとは上手いものを食べに来たのではない、話を聞き、同席の人たちと歓談し、より広いネットワークを形成することが目的なのです。「飯がうまくない」と主催者にクレームでもするならば「そんなのは自分で好きなレストランに行ったときに楽しみなさい」と言われるのがオチでしょう。

先日、バンクーバーでインドネシアのコミュニティイベントに参加しました。こちらは中華ディナーで200名以上が参加しチケットは完売。5時から10時までの長丁場にも関わらず、大臣2名をはじめ議員4-5名最後までいました。一人65ドル(5,700円程度)の会費の割には上手いと思える食事は皆無でそこに食べるものがある、というレベルでした。しかし、誰一人これに文句を言いません。

同様に10月の台湾建国110周年の会食も500人以上集まり、中華にうるさい台湾人が参加者の主流でしたが誰一人「美味しくない」とは言いません。つまり会食で「美味しいものを食べる」という期待があるのは日本だけなのかもしれません。

日本では忘年会シーズンが間もなく始まりますが、コロナでそもそも会食にならないのでしょう。仮に会食が復活しても「行きたくない」という若い人が増えているのは楽しくないと思っているからです。ただ、人間、楽しいことだけをやるわけでもないし、自分の好きなことだけにお金を使う訳でもありません。お金は社会を循環するといいますが、それはそのようなイベントを介して参加し、発見する悦びに投資をすることだと考えています。

日本で社会奉仕活動が今一つ盛り上がらず、同じ考えを持つグループの会食もあまり存在しないのはある意味、特異な気がします。また当地の多くのそれらのイベントでは会費に運営費が含まれています。上述の65ドルの会費ならばレストランへの食事代は35ドル程度で残りは運営の様々な費用に充てているでしょう。そして参加する人は「あんなに払ったのにこれっぽっち?」とは絶対に言いません。参加することに意義があることをそこにいる人たちは皆、わかっているからであります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年12月8日の記事より転載させていただきました。