近年における科学・技術の急速な進歩は、人類の発展に大きな寄与をもたらした一方、その危険性をも露わにした。典型的な例は、原子核物理学の進歩から生じた核兵器であり、人間の頭脳の代わりと期待されたコンピュータの発展は、AI兵器の恐怖を現実のものとしている。また人間を宇宙まで運ぶロケット技術は、長距離弾道ミサイル開発によって推進された。
医学においては、かつてはタブー視されていた心臓移植さえも、現在では比較的「当たり前」の医療技術になりつつある(2020年度の国内心臓移植は68件にのぼる)。作家吉村昭が1971年に書いた「消えた鼓動」と言う作品は、初期の心臓移植の事情を描いた記録だが、現在でも一読の価値を失わない一冊だと思う。この本の終章で彼が書いた言葉を、少し長いが、再録する。
科学の進歩は、人類に恩恵を与えた。(中略) 科学は、恐龍の巨大さにも増した力を人類に与えたのだ。そのような性格をもつ科学は、それに従事する者を狂気におとしこむ阿片のような魔力を内蔵している。フランケンシュタイン博士が怪物的人間を作り出し、アメリカの科学者たちが原子爆弾を作り出したのも、その魔力に屈したからにほかならない。そして、これらの科学に従事する者たちの自由奔放な行為を黙許すれば、恐龍がその巨大さ故に絶滅したのと同じように、人類もこの地球上から一掃されるだろう。(引用者注:ここでの「科学」は、現代的には「科学・技術」と解するべきである。)
吉村昭が50年前に書いたこの言葉を、単に妄想だと嗤うことが出来るだろうか?筆者には、吉村のこの問いかけに対する、十全な回答を未だ見出せていない。
前稿でも触れたが、産業革命以後の産業技術の巨大な発展により、地球上の資源は相当量掘り尽くされ、種々の環境汚染も進み、開発可能な土地もほとんど残っておらず、人類にとっての「地球の有限性」は目に見えるものになっている。一方で「持続可能な開発目標」などのスローガンが、筆者の目からは、何らの反省もなくビジネスチャンスとして安易に叫ばれているように見える。
科学・技術の暴走を防ぎつつ、人類社会の持続可能性を担保するためには、かなり高度な知恵が要ると思う。現代人の知性がそのような叡智を生み出せるのかどうか、実は筆者にはあまり自信がないのであるが、昔の賢人たちの知恵を借りて、何とか乗り切りたいと願う。前稿でアビダルマ仏教を紹介した理由は、その深い洞察の中に「現代人が身につけるべき思考方法」のエッセンスが凝縮されていると考えるからである。
なお、先に断っておくが、筆者には上の問いに対する「これがあれば実現可能」という回答(十分条件)は考えつかず、「少なくともこれだけは要るよね」という回答(必要条件)しか議論できない。TV等で目にする討論やディベートでは、この必要条件と十分条件の混同がしばしば見られる。
例えば、ある方策に対して「これが必要」と言う意見(必要条件の議論)に対し、「それをやっても実現するとは限らない」と言った難癖(十分条件でないことへの批判)がよく出てくる。これでは議論できない。必要条件と十分条件の峻別は、論理的思考の第一歩である。
さて、仏教思想は複雑多岐で膨大な発展を遂げ、現在ではその全貌を掴むことさえ難しくなっているが、現在筆者が注目しているのは、ブッダ本人が説いたとされる最初期の教えである。以前は原始仏教と呼ばれていたが、最近は初期仏教と呼ばれることが多い。
筆者がこれまでの学習で得た、アビダルマを含む初期仏教思想の、特に思考方法上の特徴をまとめると、以下のようになる(馬場紀寿「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書1735、その他参照)。
1. 徹底した現実直視
我々の周囲、それを認識する我々の意識も含め、主観を交えず徹底的に観察する。「こうであって欲しい」のような希望的観測を一切持ち込まないし「不都合な真実」にも目を背けない。その態度は、ほとんど非情にも思えるほど、人間の弱さや愚かさに至るまで、徹底して全てを見ようとする態度がある。まさに科学的思考の第一歩と言える。
2. 超越的存在の否定
一神教的な「全能の神」的な存在を否定する。また、そうしたものにすがれば救われる、などとも考えない。カルト的な非合理的神秘主義に陥らず「奇跡」を信じない。ある意味、ドライな合理主義である。この点は、古代中国の思想家・孔子の「子は怪(怪異)・力(超人的な力)・乱(混乱・無秩序)・神(鬼神)を語らず」とも共通する(井波律子「論語入門」岩波新書1366、その他参照)。
3. 適度な不可知論
「世界は永遠であるのか、ないのか?」「死後の世界はあるのか、ないのか?」などの超越的な問い(=答えのない問い)には答えない(無記)。わかり得ない問いに対しては、自覚的に不可知論の立場に立つ。分からないものは分からないと正直に言う態度とも言える。ここで大事なのは「自覚的」であることと「適度」であることの二点である。
4. 懐疑主義だがニヒリズムに陥らないバランス感覚
人間の認識はしばしば誤りを含むことを認め、何事も簡単には信じず、真偽を慎重に確かめようとする。しかし一方、何事も信じられないとする立場は、往々にしてニヒリズム(虚無主義=何事にも価値を見出さない考え方)に陥る。この両極端のどちらにも偏らない「中道」の大切さを説く。この点は、実際は難しい。例えば、頭の単純な人は、しばしば「AかBか?」の二者択一でモノを考え「AでなければB」と考える。
しかし現実は複雑で「全部Aではないが一部B的なところもある」と言った、簡単には割り切れない状況もしばしば起こる。その中間で、微妙に揺れ動くバランス感覚が重要なのである。常に「二項対立」的な単純思考(白か黒か、敵か味方か、正しいのか間違っているのか)しか出来ない人は、常に不毛な二項対立関係の中で生きることになる。これを避ける知恵でもある。
5. 無知の自覚
自分の認識・理解出来る範囲は限られており、何もかも分かるなどということはあり得ないとする態度。知的傲慢さを避け、常に謙虚な態度で事物に当たることの大切さを説く。現代で言えば、コンピュータ・シミュレーションやAIなら、あるいは科学・技術が進めば、万能で何でも出来る、支配・征服出来ると信じ込むような単純さ・傲慢さを避ける知恵でもある。
6. 相互依存性の重視
事物はすべて、単一の形では存在せず、関連する多くの因子と相互に支え合う形でしか存在できないとする認識。
人間の世界(社会)はまさにそうであり、一人の人間でさえ何十兆個の細胞で形成され相互に支え合って生きており、1個の細胞もまた数多くの分子・原子でできている。自然界の生態系も、地球も太陽系も銀河系も、全てそのように出来上がっており、何かが何かを征服する・従属させるような形では存在せず、お互いがお互いを支え合って存在するのが実相である。この考えはまた、多様性の重視にも繋がる。この世界観は貴重である。
7. 「菩薩」の思想=利他主義
これは、仏教思想が本来持っている倫理的要請である。自分だけ良ければ良い、儲かりさえすれば良い・・と言った考えの対極的思想。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から最も遠い思想とも言える。また、科学・技術的な開発が何をもたらすかを考えない人間は、自己の欲望充足だけしか見ておらず、利他的考えを失っている状態にある。政治的指導者や政府機関官僚などがしばしばハマりやすい陥穽とも言える。
現代人、特に権力・影響力その他何らかの「力」を持つ人間が、一般常識として「利他的思考」を身につけられるかどうか、おそらくこれが一つの鍵である。
以上、冒頭の吉村昭の問いに対する筆者なりの「必要条件」を考えてみた。むろん、筆者の理解も考えもまだまだ幼稚で浅薄なことは重々承知の上で、一種の「問題提起」として受け取っていただけたら有難い。
なぜこんなことを長々と書いたのか?それは、現代に至る科学・技術の発展が「我思う 故に我あり」のデカルト的合理主義思考(=西洋的思考)から出発し、精神と物質を明確に区別して物質的・機械論的世界観だけを拡大してきた、その果てにあると見えるからである。この先には、傲慢な科学・技術万能主義または何もかもをお金に換算する経済万能主義しか残されていないように思われる。
これを打破して、人間が人間らしく生きて行ける世界を構築するための考え方が必要であり、そのヒントの一つとして、東洋的思惟、その中の一分野である初期仏教の「知恵」が役立つのではないかと考えるのである。それらを学ぶ筆者の探求は、これからも続く。
【関連記事】
・古代の先達たちの洞察力に学ぶ