上演が終わったからと言って、簡単に忘れたくはない名演がある。昭和の香り高き日生劇場で行われた東京二期会のオペレッタ『こうもり』の初日公演(11月25日)は、この鬱々とした2021年の気分を華やかに吹き飛ばしてくれた。みんなに騙され、うその収監を受ける主役アイゼンシュタインを又吉秀樹さんが演じたが、過去のどの歌手もここまでのものは見せたことがないというキレキレのアイゼンシュタインで、登場のシーンからテンションがとんでもなく高い。初日組の「座長」として全体を引っ張っていく覚悟があったのだろう。見たところアドリブが非常に多く、共演者たちもホットな「返し」をしていた。
又吉さんは2014年の二期会オペラ『イドメネオ』(モーツァルト)で、若くしてタイトルロールの王を演じ、頭角を表してきたテノールだが、最初の役が王様だったのも納得で、高貴な役を「地」で演じてしまう。有閑階級の優雅なオーラをまといつつ、桂枝雀師匠のいう「ホンマ領域」と「ウソ領域」を思い切り横断する見事なコメディアンぶりだった。あの路線で行くと決めたなら、大きなリスクもあったはずだ(段取り通りが一番楽)。ぎりぎりまで客席にアピールし、木製のピアノにぴょいと飛び乗り、ソファをジャンプして乗り越えた。日本語の台詞とドイツ語の歌唱が交互にくるが、歌は明るく英雄的で、難しい件でも、役の面白味を忘れずに歌い上げていた。
アイゼンシュタインの留守中に浮気をし、変装をして旦那を誘惑するロザリンデを幸田浩子さんが歌い、過去の小間使いアデーレ役が好評を得ていたため、ロザリンデのロールデビューが期待されていたが、期待以上に美しく色っぽい。「テノール歌手」役の澤原行正さんとの絡みもセクシーでスリルがあった。アデーレは今最も輝けるソプラノの期待の星である高橋維さんが演じ、物語の冒頭から思い切った高音で登場し、魅力満点のコメディエンヌぶりを発揮した。夜の女王からルチア、クレオパトラまで七変化の天才タイプだが、アデーレの「天然ずうずうしい」性格も、面白く演じていた。歌唱力だけでなく冴えたユーモアセンスのある女性歌手は貴重である。
アンドレアス・ホモキ演出の『こうもり』は2017年の二期会の初演から4年ぶり、二回目となるが、「アイゼンシュタインをだますためのエキストラ」として、彼以外の全員を描くという設定にこだわり、男装のメゾソプラノが歌うロシアの公爵オルロフスキーも通常とはだいぶ変わる。舞踏会に来た女性の一人が「ドレスを脱がされて、無理やり男装をさせられ」歌う。郷家暁子さんが目覚ましい演技で、台詞にもアクートが入り(?)たくさんの凝った芝居をしながら技術的に高度な歌を聴かせた。演出家のホモキ自身が「僕が難しくしすぎてしまったオルロフスキー」と自覚していたという。2017年に観たときは分かりづらかったが、今回は演出家の企みを最初から理解して楽しむことが出来た。
この上演の大きな話題は、3幕に登場する看守フロッシュを、森公美子さんが演じることだった。女性が演じるフロッシュは世界でも珍しいのではないかと思う。当然ながら、森さんにしか出来ないユニークな演技で、ここではどの役者もレジーテアター的な芝居をアウトロー感満載で演じるのだが、森さんは監獄の「テノール歌手」に「もっと(声を)伸ばせ〜」と煽り、師匠であるモンセラート・カヴェリエのエピソード、プッチーニ・オペラを歌ったときの師匠の珍事などを面白く語った。森さんのアドリブ偏差値が異常に高いので、刑務所長のフランク役の斉木健詞さんは合いの手が大変そうだったが、このフロッシュの芝居は恐らく毎日変えていた部分で、全日観てみたかった。森さんはかなり面白かったが、余韻として、とても優しい妖精のような人が舞台にいたという感じだった。
アイゼンシュタインを恨んで騙すファルケ博士は宮本益光さん。ヘアメイクのせいか、最初宮本さんだと気づかなかった。アイゼンシュタインの又吉さんに華を持たせて、控え目の渋い演技をしていたように見えたが、それも良かった。
オペレッタの黄金時代は今と同じように疫病が猖獗した暗い時代で、ヨハン・シュトラウス(最近は放送でも「二世」を省略するという)は騙し合う夫婦の面白い話を、たった6週間で書いた。シュトラウス自身は意外にも気難しい性格だったというが(ブラームスと仲が良かった)三度の結婚で、最初は年上妻に飽きて自分が浮気をし、二度目は若妻に浮気され、傷心のすえ三度目に結婚した若き「アデーレ」とは生涯円満だった。夫婦はみんな浮気する、という諦観は、人生で得たものでもあったのだろう。ウィーンの黄金の像にもなった「ヴァイオリンを弾きながら指揮をする雄姿」には、女性たちが黄色い声を上げたという。「女は高音に弱いの。ああ、あのテノール声(ごえ)がたまらないわ!」というロザリンデの悶えは、ヴァイオリンを弾く作曲家自身に寄せられたものなのかも知れない。
オーケストラは東京交響楽団。指揮は川瀬賢太郎さん。序曲から、ブラームスやマーラーの香りを含んだ厚みのある「ウィーンの森」を連想させるサウンドで、大変な研究の跡がうかがえた。『こうもり』はとても難しい指揮だと思う。歌のきっかけがいちいち複雑だし、台詞が途中で出てくるし、オーケストラを急発車させなければならない箇所ばかり。川瀬さんがスコアにとことんのめり込み、クレイジーなほど完璧を目指して振られているのがわかった。ゲネプロでは上階席で観たので、川瀬さんの後ろ姿がかっこよすぎてクラクラした。またこの作品を振ることもあるだろうと思う。
又吉さんの「喜劇王」としての才能が爆発した名演、なんとかしてウィーンの観客にも見せたい。リモートで演出していたホモキ氏も喜んだのではないかと思う。誰よりも、しんどい一年を過ごしてきた大人のお客さんたちが口々に「よかった」「楽しかった」と語り合っていた。
日生劇場から出ると、イルミネーションが点灯した日比谷の街が夢じみた華やぎでオペレッタ後の観客たちを迎え、劇場の中も外も、とても輝いていた一日だった。
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オペレッタ(喜歌劇)全3幕
日本語字幕付き原語(ドイツ語)歌唱、日本語台詞上演
台本:カール・ハフナー、リヒャルト・ジュネー
原作:アンリ・メイヤック、リュドヴィク・アレヴィ『レヴェイヨン(夜食)』
作曲:ヨハン・シュトラウスII世
会場
日生劇場
公演日
2021年11月25日(木) 18:30
2021年11月26日(金) 14:00
2021年11月27日(土) 14:00
2021年11月28日(日) 14:00