世界では社会主義体制が崩れつつある:キューバのカストロ体制の晩鐘

キューバのカストロ体制が崩れつつある。

キューバ革命以後もその政治社会体制が今も維持されているが、最近からインターネットがキューバでも使用できるようになって現在の社会主義体制が徐々に崩れつつある。カストロ主義は若者の間ではもう通用しなくなっている。それに不満を表明したのが自由を求める抗議デモだ。

政治犯で収監させられている人の数は現在525人

先月11月15日にキューバで反体制派が抗議デモを計画し、警官がそれを事前に阻止しようとした。このデモでは自由であることを主張し、7月11日の抗議デモで逮捕された人たちの釈放を求めた。

フェイスブックを介してその推進役となったのが脚本家のフニオル・ガルシア氏(39)だ。彼には3万5000人のフォロワーがいるという。(11月16日付「ボス・デ・アメリカ」から引用)。

ところが、意外なのは彼がキューバを出国してスペインに入国したのである。しかも、キューバ政府は敢えて彼の出国を黙認した。これまでだと彼は逮捕されて収監されているところである。恐らく、キューバ政府はリーダーを国外に出国させておけば、今後のデモの計画を推進して行くのは容易ではなくなると見ているのであろう。

この12カ月でキューバで政治犯として逮捕された人の数は525人。昨年10月から今年9月までに387人が逮捕されて収監されている。その内の288人が7月の抗議デモで逮捕された人たちだ。逮捕された人達の数を正確に把握するのは困難だとしている。7月の抗議で収監されていた人の内の69人は釈放されたという。

またこのデモでは8000人余りが一時拘束されたが、数か月分の給料に相当する罰金を課せられて釈放されたそうだ。(10月6日付「アタラヤール」から引用)。

カストロ兄弟の革命からの政治犯はおよそ1万5000人

カストロ兄弟によるキューバ革命が遂行されてからこれまで逮捕された政治犯は1万5000人以上いるという。当初、囚人の服を着ることを拒否した者は裸にされて拷問や侮辱に晒されたそうだ。そして彼らの多くが殺害された。

その生き証人4人が述懐したことが10月30日付「ABC]」にて掲載された。それを以下に紹介したい。

アンヘル・デ・ファナ(82)

刑務所に20年7カ月の間収監されていた。囚人服を着ることに抵抗して1年懲役が増えた。拘束された日の尋問では裸にされてエアコンの冷たい風を受けっぱなしだった。国家の転覆を図ろうとしたということで有罪となった。公判で彼の弁護士は彼を弁護するのではなく、「彼の為に寛大な処置を」と懇願しただけだったそうだ。

「膝まづいて生きるよりも立って死ぬ方を好む」というのが彼ら囚人の口癖だったそうだ。即ち、生きる為に不正に屈するよりも正当な理由の為に人生を犠牲にすることを好む、という意味だ。

囚人の仲間に生存できるのと交換でテレビを見ることができると誘われた者がいた。そこには(共産主義の)教義が録画されているのだ。それを拒否した者は銃殺にされたそうだ。

「我々はハンガーストを行った。それが外部に知れ渡るようにするためだった。それで我々が死ぬようなことになると世間がそれを知るようになる。それを恐れた当局は、出国しないという条件付きで我々を釈放した」と語った。

現在、彼は米国に住んでいるが、1959年から1970年までに3万人の政治犯が収監されていたそうだ。90年代になると400人くらい。今は600人くらいで、その内の500人は7月11日の抗議デモで拘束された者たちだ、と取材で語ったそうだ。

ルイス・スーニェガ(74)

15歳の時からカストロ主義に反対して国家を転覆させようと試みたそうだ。ボニアト刑務所では一日24時間騒音の中に晒されたという。裸にされ、泥水を飲まされた。2年間太陽を見ることなく独房に入れられたあと最も厳重な刑務所に送られた。そこでは足に血栓ができるようにした。それで病院に運ばれた。そこを元ゲリラ兵と一緒に脱走した。米国に辿り着いた。その翌年友人に武器を渡すのにキューバに侵入したが捕まった。懲役25年の刑が言い渡された。

「拷問は30回以上受けた。その最悪のひとつだったのは鉄棒で頭を殴られて頭蓋骨にびびが入ったことだった。ハンガーストをやっていた時に33日目に食べるのを強いった。鉄格子の間から銃剣を刺して来た。それで仲間の中には殺された者もいる。私は胸骨を刺され死ぬかと思った」と述懐した。

「当局には二つの手段でもって我々を破壊することだった。心理的そして肉体的にだ。殴打したり、空腹にさせたり。それらは肉体的破壊の一部だ。脅迫、恐れ、独房にて裸にして数年間送らせる。それが心理面からだ。システムに二度と立ち向かうことができないように破壊させるのだ。出獄する時は敵ではなくなるというのが彼らの狙いであったが、逆に拷問が我々をより逞しくさせて行った」とも述べた。

幸せは唯一二つの条件が満たされた時に達成される。愛と憎悪がなくなった時だ、と指摘した。

エルネスト・ディアス・ロドリゲス(82)

22年3か月と19日を刑務所暮らした。「独房の仲間を銃殺するのに夜彼らを連れ出していたことに私のこころは常に引き裂かれていた。彼らの多くは弁護する権利もなく、ましてや公判さえされなかった」と語り、「フィデル・カストロは過激な独裁主義者で我々を統治した者の中で彼は最悪だった」と述べた。

当初15年の刑が言い渡されたが、2回目の公判で弁護することも許されず25年の服役という判決が下ったという。5か月間続いたハンガーストをやっていた時に栄養補給液を注入するのに先の尖っていない針で静脈に15回とか20回注射されるたびに強烈な傷みを感じていたことを指摘した。

「仲間の囚人がくれる小箱に入っている紙に非常に小さな字で綴って行った。それを独房の壁に埋めて隠していた。仲間の囚人が釈放される度にそれを外部に持ち出して+もらった。この機会が到来するのが1年ぶりという時もあった。それが出版されるようになり、ペンクラブは私を名誉メンバーとして受け入れてくれて、彼らは私の釈放の為のキャンペーンをするようにもなった」と語った。

そして「これまで囚人服を着るのを拒否し続けた反抗者で刑務所で残っているのは4人となった時にニューヨークのジョン・オッコナー枢機卿がフィデル・カストロに私の釈放を懇願した。カストロは最後までそれを拒否。しかし、1991年に遂に釈放してくれた」と語った。

私の妻に「私の独房に戻ることができるのであればなんでもする」と言ってやると妻はとても不快に感じるようであるが、あそこで正義を求めて闘っていた時が幸せだったからだ」と述べた。

マリタ・ルゴ・フェルナンデス(58)

「公判を受けることなく女性ばかりの刑務所に5年服役していた。それで私の人生は打ち砕かれた」と語った。

「独房は幅1メートル、長さ2メートルで窓は無かった。完全に交信は絶たれていた。日中なのか夜なのかわからなかった。地獄にいるような気持ちにもなり、また生きているのか死んでいるのか疑うようにもなっていた」「ハンガーストをやっていた時に、私の両親は振る舞いを改めるように懇願して来た。私がやっていることに辛い思いを感じているということからだった」「ということから、私は両親や娘の訪問を受けたくないことを伝えた。それが数年続き、家族の絆は破壊されて行った」と語った。

「独房は非常に冷たく、コンクリートの上にじかに寝ていた。マットレスはなく墓場のようなものだ。上からかけるものもない。身体を洗う水もなかった。床は常に濡れているようで、いやなにおいが漂っていた。囚人の中にはそれに耐えきれず、腕が折れるほどに壁を叩いていた。叫び、自分の排出物で独房を汚していた。耐えられず、神経の病に陥るようになって行くのだった。このような状態になると、警備員が中に入って来て囚人を殴打するのだ」「それを聞いていた私は自分の独房から彼らを権力の乱用者だとして批難した」と回顧した。自由になった今も苦痛を感じ泣くときもあるそうだ。