武蔵野市条例否決:「乗っ取り」進行を自覚し再提出に備えよ

武蔵野市松下玲子市長が提出・推進した外国人による住民投票への参加を認める条例案が市議会で否決された。この条例案に対して提出当初より安全保障上への悪影響を懸念する声があるが、もっともである。

superwaka

武蔵野市は日本有事の際に国民保護対応を行う安全保障上の主体だからこうした批判を無視すべきではない。一方で地方自治体は安全保障「政策」を実施する主体でもないから批判への回答は難しいだろう。

率直に言って地方自治体と安全保障は相性が悪い。地方自治体は安全保障に責任を持てない。責任を持てない条例を制定する必要はない。

もう一つのこの条例案が批判された理由として対象外国人を在住三か月以上としたことが挙げられる。日本人でも地域の在住期間は決して軽視して良い情報ではない。

在住三か月はあまりにも短すぎる。読者の方も外国人…ではなく日本人で想像されたい。わずか三か月の在住で「自分はこの地域の成員だ。メンバーだ。」と主張する日本人を友人として受け入れられるだろうか。むしろ受け入れたくないという人の方が多いのではないか。あまりにも現実離れ、とても地方自治的発想ではない。

松下玲子市長は「外国籍住民」の「住民」ではなく「外国籍」の部分に関心の重きを置いている可能性が高く、在住外国人に誤ったメッセージを送っていないだろうか。

外国人が外国人であることに価値を感じるようになったら彼らは地域の一員になる努力を怠るのではないか。「外国人も同じも住民だ」という主張は実は在住外国人に必要以上に自らの国籍を意識させ「住民性」を忘却させることに繋がるだけである。

更に外国人に地方自治体が乗っ取られるという批判もあった。これを「妄想」「荒唐無稽」と批判する声もあるがどうだろうか。地方自治体は転入者を拒否できない。転入拒否は憲法違反である。即ち地方自治体は管轄下の外国人人口を調整できない。当たり前だが武蔵野市民も市内外国人人口を調整できない。善良な市民であればあるほど「迷惑だから別の自治体に引っ越しくれ」と言えないのではないだろうか。

かつて山梨県旧上九一色村(現甲府市・富士河口湖村)はオウム真理教信徒の転入拒否ができず大規模サティアンの建設を座視するしかなかった。オウム真理教事件が鎮静化した後も東京都世田谷区ではオウム真理教信徒を転入拒否したが、もちろんそれは憲法違反でありオウム真理教を対象とした条例を制定せざるを得なかった。世田谷区は今なお「オウム真理教対応」を実施している

行政にしろ日本人住民にしろ地域の外国人人口は調整できない。人口は人為的に操作できないのである。調整不可能なものに不安を覚え、そこから「乗っ取り」を警戒する声は全く正当な主張である。こうした不安の声を否定し、あまつさえ「ヘイトスピーチ」などと批判する者に地方自治を語る資格はない。

話を戻すが筆者はこの「乗っ取り」についてまだ議論が深められると考える。

地方自治体の権力構造を語る上で無視できないのは首長権力の絶大性である。首長は対行政職員、対議会において人事・予算等で絶大な権力を有する。

平均的行政職員はやはり人事を意識するし議員は内閣の国務大臣ように行政部局の一員になることもないから行政実務を学ぶ機会が少なく、対抗知識にも限界がある。地方議会で与野党の区別が曖昧なのも首長権力の絶大性を理由とする。

地方自治体を乗っ取るための有力な手段は首長に接近することである。

率直に言って特に必要とされない、激しい反響が予想される条例案を推進する松下玲子市長の存在自体が既に特定勢力による地方自治体への乗っ取り活動の存在の傍証となると判断するのは考え過ぎだろうか。首長権力の絶大性はそう考えさせるほどの威力がある。首長権力については地方自治法の改正も含めて議論すべきである。首長の多選制限を導入するだけでもその権力はかなり抑制できる。

また、ジャーナリズムの偏向にも注目したい。

この条例案を巡るジャーナリズムは異様である。普段、得意になって「権力を監視するのがジャーナリズムである」と語るマスコミに限って武蔵野市長という権力に迎合して条例を推進している。やはり東京新聞が目立つ。

地方権力を批判しない地方紙とは何者だろうか。東京区域の地方自治体首長が提出・推進する条例案を批判的に検証しない東京新聞のジャーナリズムとはなんなのだろうか。全くの自己否定であり権力との一体化の誹りも免れまい。

地方紙記者は「取材」を理由に住民の日常生活圏に容易に侵入できることを考えれば地方紙の偏向は深刻なことである。

再提出に備えよ

条例推進派は単に外国人に必要以上に国籍を意識させ、一方で住民性を忘却させ地域の一員どころ独立コミュニティの建設を奨励しているに過ぎず、地域の不安を煽り、分断を推進しているだけである。

しかし、こうした不満とは別に条例案は「再提出」されるようである。

この場合、武蔵野市長という権力と一体化した左派ジャーナリズムは「ヘイト」「差別」などの言葉を連呼し反対派を攻撃するだろう。もしかしたら「取材」の名目で反対派の身辺調査を行うかもしれない。

戦後、稀にみる権力とジャーナリズムの一体化が見られるだろう。ジャーナリズムは消滅しない。思想警察に化けるのである。

筆者はこれに抗することこそが地方自治だと思うし、そのためにも条例推進派の動向は今後も注視、適宜、記事化していきたい。