政治家・菅義偉は「終わった人」ではない:『孤独の宰相 菅義偉とは何者だったのか』

小林 武史

「これは、もはや政治判断なんだ。お前らはこれ以上、余計な動きをするな。俺は課長と話しているんじゃねえぞ。出て行け」

官房長官執務室に怒声が響き渡る。逆鱗に触れたのは当時の財務省事務次官の田中一穂。テレビ画面を通じて無表情で抑揚のない語り口に慣れた国民からすれば、菅義偉が声を荒げる様子は想像しがたい。しかし、菅の本来の姿は「戦う政治家」であり、政策実現に一路邁進する職人気質の仕事人間である。

本書は菅の懐に入り込んだ著者が菅の数々の発言を引用する形で官房長官から総理の座へと駆け上がり、そして1年で転落していった菅の道程をつぶさに再現した労作である。

現首相岸田文雄への菅の評価は極めて厳しい。元首相の安倍晋三は岸田を自らの後継とすべく、幹事長人事で二階俊博との交代を模索。結局幹事長交代は菅が止めたものの、その後も政調会長として実績を積ませようと安倍は岸田の宰相への道に心を砕く。

こういったことが積み重なり「鉄壁のガースー」と呼ばれた菅の安倍に対する信頼が揺らぎ、二人の間に微妙な距離が生まれたという。この間の経緯についても著者は菅の発言を細かく記録しており、読者のページをめくる速度はいやがおうにも増す。しかし、生々しく臨場感に溢れる筆致での描写であるが故に、今後菅の政治活動に悪影響は出ないのだろうか。そして、菅は著者との極めて近い距離感をこれからも維持するのかどうか。内幕暴露が現実の政治と人間関係にどういう意味をもつのか想像を巡らせると、これまた大変興味深い。

安倍政権は政治主導の下、堅固な官邸一強体制が支えた。首相が交代すると、支える体制に変化が生じる。著者は安倍政権と比較して菅政権を「菅スーパー一強」と呼ぶが、それは菅を支える官邸の体制が抱える脆さの裏返しでもあった。

菅は官房長官時代から面会相手とのアポ調整やお土産選定まで自ら行っていたエピソードを著者は紹介するが、読者にはリーダーが本来やるべきことなのだろうかとの疑問が当然浮かぶことだろう。また、後段では首相と意見具申する者の間のクッション役不在に言及。安倍元首相は「菅首相に菅官房長官なし」と喝破したが、全ての問題を首相が抱え込むことによる官邸の機能不全にも触れている。

コロナ禍という未曾有の危機において、高支持率で発進した政権が悪循環に嵌まり急坂を転げ落ちていく道程を目撃した直後だからこそ、官邸の体制に思いを巡らさざるを得ない。

岸田首相が元経産事務次官を筆頭の秘書官に据え、財務省を始め各省のエース級幹部で回りを固めたことは極めて対照的である。トップダウンからボトムアップによる新たな意志決定プロセスの構築は、正に菅官邸の反面教師だ。しかし重要なことは、安倍・菅両政権で進めてきた政治主導の潮流が、現政権によって官僚主導へと先祖返りしてはいないのかということである。

「戦わない政治家」と見下していた岸田と戦うことなく首相の座を明け渡した菅。しかし、総選挙を経て一兵卒として国会に戻ってきた菅は意気軒昂だ。総裁選出馬を否定しながら著者には首相の座奪取への道を意欲満々に語っていた菅の一面を、本書を一読した読者はご存知だろう。

12月15日BS11リベラルタイムの番組中に菅派の結成を問われた際には、「いろいろ言われるが、政策を実現するには賛同してくれる人が必要だ」と敢えて否定しなかった。本書で明かされた菅の言動を考えれば、派閥結成に向け水面下で動いていると推測するのが自然だ。

首相時代に完遂できなかった改革を、今度は派閥領袖の立場で党内から押し進めようと考えているのだろうか。政治家・菅義偉は、未だ「終わった人」ではない。