武蔵野市の外国人による住民投票への参加を認める条例案に対する批判として「乗っ取り」が挙げられた理由として、
- 地方自治体は転入者を拒否できない
- 首長権力が絶大である
- 多くの日本人にとって「住民」は書類上の意味しかない
が考えられる。
政治意識を高めた在住外国人が自治体内で独立コミュニティを形成し、そこを拠点に首長に政治的事柄を働きかけることは全くあり得る話である。条例の発案のほとんどが首長サイドによって行われる「地方自治の現実」を考えれば、これは過小評価できない。
政治意識が高い在住外国人の要望によって制定された条例により地域内で文化摩擦が発生した場合、それを在住外国人による「乗っ取り」と感じるのは無理もない話である。
実際のところ例えば「宗教」と密接に関係するような事案に対して我々日本人は明快な主張ができるだろうか。「政教分離だから大丈夫だ」という反論が聞こえてきそうだが松下玲子市長のようなタイプは「宗教」を「多文化」と置き換え在住外国人側に立つのではないだろうか。
こうした懸念が抱かれる理由として条例推進派の姿勢が挙げられる。
条例推進派は条例案に法的拘束力がないことを強調するが、意思表明とはたとえ議決に参加しないものでも議決に影響を与えることはできる。
我々は会議においてオブザーバーを呼び、彼らの意思表明に対してなんらかの回答を出すことを日常的に実践しているはずだ。「条例はあくまで在住外国人の声を聞くだけの話」という条例推進派の主張は詭弁と言わざるを得ない。
条例推進派の姿勢として特に反発を招いたのは日本の安全保障への影響を考慮しないところだろう。
地方自治体は日本という国家の一部であり地方自治は日本国からの独立を意味しない。
憲法99条に規定された憲法尊重擁護義務は地方公務員にも適用されるが、これは「地方自治体は日本国の一部」という前提があって成立するものである。
沖縄県の基地問題を見てもわかるように地方自治体は安全保障政策を企画・立案しないが執行段階で深くかかわるため安全保障政策に影響を与えることはできる。
「住民」「地方自治」を殊更強調して地方自治体が安全保障と無関係であるかのような言説は無責任と言えよう。
地方自治体は安全保障政策を企画・立案しない以上、安全保障政策に対し結果責任を持つことに限界がある。結果責任を持つことに限界がある主体が抑制的な判断・姿勢を示す、今回のように日本の安全保障上の利益を害するおそれ「外国人による住民投票への参加」を認めないことは批判されることではない。むしろ好ましいことである。
おそらくこの問題の本質は憲法だろう。憲法で地方自治を謳いながら国益と地方の利益を調整する実効的な統治機関がないのである。
望ましいのは憲法を改正し国会に地方代表者による議院を設けることである。「地方代表者から成る議院」があれば安全保障政策の企画・立案段階で地方の利益を反映させることができる。
地方自治を白けさせる人々
条例推進派の無責任な姿勢は彼らから純粋性を奪ったと言えよう。
条例推進派の姿勢は在住外国人のことを思う素朴な気持ちで条例案に賛成・推進したというより公言できない目的を達成するために「住民」「地方自治」を強調し安全保障上の懸念を誤魔化す、有耶無耶にする、率直に言って「あの人達は承知のうえで推進しているのだ」という感想を抱かせるのに十分だった。
そして条例推進派のような無責任な人達、即ち「夢想家」「活動家」という言葉がふさわしい人達に限って地方政治に積極的に関与するため地域の人達は白け、書類上の「住民」になるのである。