10年よりも前になりますが私は嘗て、「今日の森信三(159)」として次のようにツイートしたことがあります――「志」とか「立志」というコトバは、比較的若い世代の人々の問題だとしたら、「心願」という問題は、人生の後半生にのぞんで、初めて問題になりかける問題といってよく、さらには人生の晩年に近づいて、ようやく問題となり出すような事柄といってもよいかと思われます。
『論語』の「為政第二の四」に孔子の有名な言葉、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず…私は十五歳の時学問に志し、三十歳にして学なって、世渡りができるようになった。四十歳で事の道理に通じて迷わなくなり、五十歳にして天命の理を知った。六十歳では何を聞いてもその是非が判別でき、七十歳になった今は思いのまま振舞っても道をはずさなくなった」とあります。
立志とは、このように比較的若い時にあるものです。しかし立志した事柄が、そう簡単に成就できるわけでもありません。森先生は『「心願」とは、人が内奥ふかく秘められている「願い」であり、如何なる方向にむかってこの自己を捧げるべきかと思い悩んだあげくのはて、ついに自己の献身の方向をつかんだ人の心的状態』というふうに言われています。此の心願とは私流に解釈すれば、立志をずっと持ち続け自分の志の成就に一歩でも近づくよう全力投球しつつ、その成就についての天に対する心からの願いではないかというような気がします。
晩年にもなれば、人生の残り時間につき思い巡らせねばなりません。その時に、自分の志は成就することが出来るかと一種の焦りに似たような気持も出来てくるでしょう。また同時に、此の世に生ある間やれるだけやって行こう、という強い意志も今一度コンファームして行くことでしょう。森先生は『志が前進的な積極性の趣をもつに対して、「心願」のほうは人生の真実に対して、深く内面的に沈潜する趣がある』とも言われています。人生の後半生に臨んでみるに、志そのものについても本当に之で良かったのか、といった思いも生じてくるかもしれません。従ってそういう意味では、様々内省をするといった気持が強くなってくるのだろうと思います。
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編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年12月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。