「平和」と「平等」について --- 三輪 真之

年が改まり、「コロナ禍」も何とか終息に向かいつつある現在、あちらこちらで、「これまで、気になりながらも、一日延ばしにしてきたテーマ」に関する議論が始まりつつあるが、そこで最も重要なことは、「根本的な見直しが必要なテーマに関しては、目から鱗が落ちるような視点が求められる」ということである。

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そのような視点の一つが、「多くの人間は、二重否定的な目標が達成されても、決して幸福にはならない」という「人間哲学的な真理」である。

この「真理」が示す事情は、例えば、「悪いことをしない人間がいくら多くなっても、(それは、寧ろ、当たり前のことであり)、良いことをする人間が多くならない限り世の中は決して良くはならない」という社会の現実や、「校則に違反しない生徒がいくら増えても、(何もしない優等生がふえるばかりで)自主性や創造性を持った生徒は一向に育たない」といった教育現場の現状とも符合する。

すなわち、「望ましくないことを無くす」という「二重否定的な目標」は、高々「幸福になるための必要条件」に過ぎず、「望ましいことを実現する」という「肯定的な目標」には、「目標の妥当性」という点において、遠く及ばないということである。

そこで、改めて確認すべきであると思われるのが、「平和や平等を目標とする二重否定的な思想や活動」の限界である。

あまり知られていないようであるが、「平和や平等を、この上なく重要なものとする思想」は、何れも、「異様で理不尽な現実を否定するために生まれた二重否定的な思想」であり、「古今東西を問わず、多くの人間に長く支持されてきた思想」(大半は、「人間哲学的な真理」)ではない。

「平和」について言えば、「平和主義」や「平和運動」は、「人類の歴史上未曾有と言うべき悲惨な戦禍が続いた20世紀」に、「戦争のせいで理不尽な不幸を強いられた夥しい数の人間」の「戦争だけは御免であるといった素朴な心情」から忽然と登場したものであり、少なくとも、「二千年前からヨーロッパで重視されてきた思想」ではないし、また、「平和が達成されたから」といって、「多くの人間が幸福になる」とは限らない。

従って、21世紀の人類(特に、先進国)は、何時までも「愚かな戦争を無くす」ことに腐心するのではなく、一歩先に進み、「心正しく生きる人間が幸福になる」ことを目標にすべきであろう。

「平等」について言えば、ジャンジャック・ルソー(1712~1778)の『人間不平等論起源論』(1755)が、「フランス革命」(1789)や「マルクスの唯物史観」に大きな影響を与えたことはよく知られているが、そもそも、「何故、18世紀の中頃のフランスで、平等論が(忽然と)登場したか」(逆に言えば、「何故、18世紀以前のヨーロッパで、平等論が登場しなかったか」)ということについては、十分な吟味がなされてきたとは言い難い。

しかも、「平等論の背景にあった、理不尽な差別」に対する検証が未だに不十分であるため、「平等であることは無条件に良いことである」(あるいは、「差別は無条件に悪いことである」)などといった「噴飯物の主張」がもっともらしく蔓延することになる。

しかし、「心正しく一生懸命生きている人間と、心得違いをして甘ったれている人間とは、決して平等ではない」という「真理」や、「理不尽な根拠による差別は、人として許されない」という「倫理」は、小学生でも分かることであろう。

我々は、もうそろそろ「浅薄な平等論」(更には、「平等論を前提とした民主主義」)とは訣別し、「人間哲学的な真理」を前提として「差別の根拠の妥当性」を吟味し、「多くの人間が、心から幸福に思える社会」を目標にすべきであろう。

三輪 真之
計画哲学研究所・所長、工学博士。1946年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(都市計画専攻、博士課程)修了。1972年に計画哲学研究所を創設。東京デザイン専門学校講師・早稲田大学客員教授・国士舘大学講師などを経て、現在は「新しい日本を創る会」代表。2016年から「知る人ぞ知る現代のソクラテス」と称してfacebookを開始。