「正直者が馬鹿を見る」という現実をどう乗り越えるのか:『裏道を行け』

裏道を行け ディストピア世界をHACKする」の定義によると、「リベラル化」とは「自分らしく自由に生きたい」という価値観が広まることである。これは歴史的に見てとてつもなく大きな影響をわたしたちの社会に及ぼしたが、そのインパクトの大きさをまだわかっていないという。

[橘玲]の裏道を行け ディストピア世界をHACKする (講談社現代新書)

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リベラルな社会は耳に心地が良いが、じつは苛烈で弱肉強食な世界であることは、筆者は常々指摘している。

リベラルな社会では、「わたしが自由に生きるのなら、あなたにも自由に生きる権利がある」とされる。この自由の相互性によってあらゆる差別は許容されなくなり、女性や有色人種、性的少数者など、これまで社会の片隅に追いやられてきたマイノリティに平等な権利が与えられることになった。

人びとが「自分らしく」生きるようになって、中間共同体は解体すれば、個々人が社会と直接向き合うことになる。わたしたちは自由を手にしたが、自由と平等はトレードオフになる。自由になったことによって、おのれの行動の帰結はすべて自己責任になる。

そのことに無自覚に自由を謳歌していた。先進国は豊かになったことによって、第二次世界大戦後のしばらくの間、その事実から目を背けることができたのだ。日本もなんとか糊塗してきたが、それも限界に近づいてきている。

そして、社会のリベラル化によって、誰もが自由におのれの権利を主張するようになれば、個々人の利害は衝突する。

それによって政治は利害調整の機能を失い、行政は肥大化して機能しなくなっていく。だがいちばんの問題は、複雑な社会(人間関係)にうまく適応できない(一般には「コミュ力が低い」とされる)ひとたちが脱落していくことだ。

知識社会化とリベラル化は、一部の人間の才能を爆発的に引き出した。そしてグローバル化がその影響力を増幅させた。客観的に見ると、先進国に住むわれわれはかつてなく豊かになっている。けれども、知識社会化とリベラル化によって人びとはかつてなく生きづらいと感じるようになってしまったというのだ。

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先進国で漫然と暮らしていては「弱者」となり底辺へと滑り落ちていく。ではどうすればよいか。それを回避するに、温存されている制度のバグを利用する方法もあると著者は提案する。それがディストピア世界をHACKするということである。

現実社会は金融市場ほど効率的ではなく、さまざまな政治的思惑がからんで、制度のバグがいつまでも温存されることがある。税制はその典型で、自民党から共産党にいたるまで、すべての政党の選挙基盤が地域の商店主や自営業者、中小企業経営者であることで、サラリーマンに比べてこうした「弱者」は圧倒的に有利な扱いを受けている。

「クロヨン」や「トーゴーサン」こういった制度の穴は、まちがいなく是正されるべきであるが、現に存在するのだ。日本社会もいよいよ行き詰まりを見せることによって、こうした「ハックの大衆化」とでもいうべき大きなトレンドが起きているという。おそろしいことである。

われわれが生きている社会は、好むと好まざると、富の多くの部分が「とてつもなく賢い者」が独占していく社会である。これれは知識社会が高度化し、正攻法の「まじめな」人生設計が通用しなくってしまったためだ。この社会では、漫然と常識に従い、ルールを守っているだけでは底辺への競争から抜け出せない。自分から情報を得ようと思えば得られる現代社会では、一般人によってもさまざまな「ハック」が行なわれることになっていくのだ。

堂々と「ハック」が行われるようになった社会はなんとも恐ろしい状況だと思うが、それは国家や社会が解体していく前兆なのかもしれない。