ポリコレとルッキズム?:M-1にみるお笑いとの境界

西村 健

昨年末のM-1グランプリの決勝で「もも」の漫才が批判を受けているように、見た目についての笑いなどが、ネット界隈では批判されるようになってきた。

不快感を感じた人が多くいた模様である。「もも」を紹介すすると、松山市出身の「せめる。」と京都市出身の「まもる。」から構成されたお笑いコンビである。

もも(吉本興業) 左:まもる。右:せめる。
M-1グランプリ2021より

こうした批判は「ルッキズム」と言われている。簡単にまとめると

【ルッキズムまとめ】

  • 定義:外見にもとづく差別や偏見
  • 外見でその人の価値をはかり差別する考え方
  • 外見至上主義とも訳される
  • 差別は①個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、②合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、③異なった(不利益な)取扱いをすること」と定義されるので、不利益の取り扱いがされること

今回のケースはどうなのだろうか。

批判したくなる気持ち、不快感を感じることもあるだろう。ただし、今回のケース、差別とはいえないし、ルッキズムとも言えない。

傷ついた人たちに言いたいのは3つ。

第一に、他人の表現にしかすぎないこと。テレビで流れていた漫才は、自分に向けられた侮辱的表現ではないのだ。他人のやり取りを「自分ごと」にとらえる必要はない。たまたま流れているだけのこと。自分たちが直接的に言われたわけではないのだ。「自分が所属していると思っている集団をいじっている」と感じることがあるかもしれないけど、その集団自体やその成員を笑っている、馬鹿にしているわけでもない。あくまで「世の中にそう思われている」という事実をネタにしているだけである。

そもそも世の中は傷つくものばかり。人権侵害は、直接言われるものが対象である。テレビやコンテンツを見なければいいという高度な避け方があるが、そうもいかない。嫌な言葉に触れた時は傷つく人はいるだろうが、そこは過ぎ去ろう・流そう・スルーしよう。偉そうな言い方がだが言わせてもらうと、他人の成功を見たり、他人の幸せな生活を見たり、自分の無力に嘆いたり、僕たち・私たちは傷つく中で、精神を鍛えていく、気にしなくなる、大人になっていくものではないのかとも思うのだ。

やりすぎなのか?

第二に、ももの漫才はその属性の人が持つ「雰囲気」や「特性」を偏見として、ネタとしていることだ。

決勝以外の「もも」のネタを見てみよう。

これらをよく見てみると「偏見を笑う」スタイルであることがわかる。

〇〇顔だけど、実際は現実は違うということ。つまり、外見が持つイメージとリアルは違ういう、人間がよくやりがちな「偏見」、そしてその浅さを表現しているとも解釈できる。見た目を笑うというより見た目のずれを笑っているともいえる。

つまり、見た目から「グループ化」し、そのグループと個人の特徴・個性を比較し、そのずれを明らかにしている。そのずれが笑いを生むわけだ。相当、知的に練り上げられているネタなのだ。

日本のお笑い文化?

第三に、日本のお笑い文化の、一コマ、あるあるネタにすぎないこと。こわもてなイメージなのにスイーツが好き、太っているのに足が速い、オタク風貌なのにめちゃ野球がうまい、など人の意外性はよくあったりする。その日常の1コマを切り取り、今回は言われた相方が釈明し、両者でやり合うというネタである。

芸人であるチャド・マーレ―さんの本「世にも奇妙なニッポンのお笑い」(NHK出版新書)によると

  • ツッコミは日本にしかない
  • 欧米ではバカなことを上から目線で指摘して、通常に戻す行為が嫌われる
  • アメリカのお笑いは肯定の文化、日本のお笑いは否定の文化ともいえる

という特徴があり、それぞれが「おもろい」道を追及している。今回は、ある意味で日本の文化的なものでもあることも自覚した方がよさそうだ。

お笑いの境界

さて、お笑いとは何かを考えていくと迷路に陥ってしまうものだが、テレビでも、ルッキズムが批判される傾向がある用に聞く。自分の意志で選べないもので評価するのは、人の権利を覆す行為でもあることも確かだから、その流れに社会が向いていることは当然のことだろう。

ちびデブ禿げという三要素を持っている自分としては、過去に、傷ついた経験があり、若い時代に深い影を落としたことも事実ではある。しかし、そうしたルッキズム的な要素をテレビや表現作品で見たとしても、それは表現の自由の範囲だと受け入れてきた。なぜか。第一に、身体的に恵まれていない点では嫌な気はしたが、そうした特徴も個性の1つなのかもしれないと思ったから。第二に、そういう事を言い出すときりがないし、言葉狩りにつながるからだ。

人間の主張や言いたいことは規制されるべきではないと考える(対個人への非人権的な誹謗中傷は別だが)。また、他人に「美人だね」「いけめんだね」「綺麗だね」「かわいいね」というのはDNAだけでなく、その人の努力という面もあるので、少しばかりは褒めたっていいのではとも思う。難しいところではあるが。

そもそもルッキズム的なことを言う人はその人が育った環境、生活空間、世の中のその時の常識・価値観・美意識などの影響を受けているわけで、そういう人に対して「ルッキズムだ!」「美しい人に『美人』とは言っていけない」(某大学教授)などといちいち批判するのも、批判された方がかわいそうな気がする。人間がルッキズムに無意識的に影響されてしまうのはごく自然なことだからだ。

マイクロアグレッションをしていないか?自覚的に

先日ある人権の研修を受講した。その際、「マイクロアグレッション」(微細な攻撃)という点が非常に重視されている。LGBTQの方々は以下のような言葉に傷ついている。

  • 「ぜんぜんそれっぽくないよね」
  • 「ホモかよ」
  • 「(女性の恋人を男性であると想定して)その彼ってどんな人なの?」

マイノリティの人たちはこういう何気ない言葉を発せられて、傷ついている。人間社会のコミュニケーションの中でのマイクロアグレッションは気を付けていかなくてはならない時代に入ったということだろう。多くの人もいろいろな面でマイノリティな面を持っているはずだから、このことは理解できるだろう。僕たち・私たちは相手がどう感じているのか、の配慮はすべきだし、出来る限りその姿勢を持ち続けたいものだ。

ただし、後々言葉を発した後、「しまった」と気づくことは難しいために、僕たちも何の気なしにしている可能性があることも自覚しなくてはならないだろう。自分の発言が相手にとってどう捉えられるか、解釈されるかは相手が決めることだからだ。もちろん意図的なマイクロアグレッションは許されるべきではない。

ただ、ルッキズムに関してはなかなか難しい。「イケメンだね」「美人だね」「ぶさいくだよね」というやり取り、そういう言葉を交わすというのは社会のコミュニケーションの一部でもある。仮に「傷つく人がいる」という根拠で規制したり、ルールや禁止事項を作ってしまっても、結果、「きもい」「生理的に無理」といったよく言われる感情や感覚、差別意識などは水面下に潜んでしまって根本的な問題解決にならないのではないかとも思う。人間はそうした偏見・違和感をなぜ持つのか、を考えて対処していくことの方が重要な気がする。