世界中で鉄道駅が便利な場所に育ったのは、日本だけです

こんにちは。

今日は、私が最近ツィッターで投稿したワシントンのユニオン駅前のホームレスがつくったテント村について、ご質問ではありませんがとてもおもしろいご感想をいただきましたので、そのご感想について書いてみようと思います。
そのご感想とは「ワシントンのホームレスのテントが、公共施設の前に作ってあることに改めて驚きました」というものです。
おそらく、「公共施設、しかもひんぱんに人が出入りする雑踏のまっただ中にテントを張って寝泊まりしたらいくらなんでも迷惑だ。悪政に対する抗議や面当ての意味があるにしても、そこまでやるものだろうか」というご感想なのだと思います。
ところが鉄道駅がひんぱんな人の出入りで雑踏が絶えない場所になっているのは、じつは先進諸国では日本だけの現象なのです。

欧米の拠点駅は、必ずへんぴな場所を選び荘厳な宮殿や堅固な要塞ふうに建てられていた

まずツィートしたときには周辺を見渡すような写真を付けることはできませんでしたが、ユニオン駅正面口前の車寄せの広さをご覧ください。

いちばん近い場所にある建物からでさえ、比較的直線距離に近い横断歩道を渡っても歩いて7~8分、用心深くコンコースの周辺を回っていけば10~15分ぐらいかかる距離です。

アメリカ大都市の拠点駅のほとんどが広大なスペースを占有していて、ニューヨークの2大駅であるペンシルヴェニア駅とグランドセントラル駅以外には、乗降客数が1日で万人単位になることはめったにありません
つまり、アメリカでは単純に大都市の拠点駅前は場所も取りやすいし、往来の邪魔にもほとんどならない場所なのです。
拠点駅につきものの御殿か要塞のような堅固で天井の高い建物、操車場などへの引き込み線の用地まで考えれば、繁華な都心に造れば莫大な立ち退き料が必要になります。
アメリカの拠点駅の場合には、市街地と郊外とのはざまに当たるようなへんぴな土地に建てた最大の理由は、この莫大な立ち退き料を少なく抑えるためでしょう。
ただ、ヨーロッパ大都市の場合には、都心に拠点駅を造らなかったことにはもっと深刻な理由がありました
それは、異国から蛮族が攻めこんできたり、都市民による搾取に怒った農民たちが列車に乗って攻めこんできたとしても、ヨーロッパ都市の伝統だった城塞の外までしか来させないようにという用心です。
また行き先となる都市ごとに違う場所にその都市行きの列車だけが発着するターミナルを造り、各ターミナル間の交通は不便なままにしておいたのも、同じように地方からの反逆者たちが鉄道を通じて連携して攻めてこないようにという配慮があったからです。

「それは勘繰りすぎでは?」と思える用心深さだが第一次世界大戦で立派な実例あり

第一次世界大戦も開戦後4年目に入った1917年、東西両戦線での総力戦に疲弊したドイツ帝国は、中立国スイスで活動していたヴラジーミル・イリイッチ・レーニンの身柄を確保してフィンランド経由の封印列車で、ロシア帝国の首都、サンクトペテルブルクに送りこんだのです。
この秘密兵器のおかげで、ドイツはロシアに対する東部戦線から解放されて、イギリス・フランスを主な敵とする西部戦線に専念できるようになりました。
その反面、ブルジョア革命でとどまる可能性が高かったロシア革命がプロレタリア独裁を目指す世界で初めての社会主義革命となり、立憲君主の座にとどまれたかもしれなかったロマノフ王家が一族滅亡の悲哀を味わうことになったのです。
さて、アメリカで鉄道が実用化された時代には、もう北アメリカ大陸の中で異民族が大都市に攻め寄せてくるとか、農民が都市民に反乱を起こすとかの心配は、1930年代大不況のどん底をのぞけばありませんでした。
ですから、アメリカでは繁華街に鉄道駅を造らなかったのは莫大な用地買収費をかけたくなかったからという理由が大きいと思います。
ただ、それはたんにアメリカの鉄道建設者たちがケチだったからではありません。それどころか、建物自体にはとんでもない大金を費やして豪壮な宮殿と見まごうような立派な駅をアメリカ全土で建てていました
今回すぐ前にホームレスのテント村ができて話題となったワシントンのユニオン駅も、1980年代までは長い沈滞を余儀なくされていました。
省エネ・省資源の陸上交通機関として見直し機運が高まって、1990年代末に内装を一新してレストランや店舗を入居させてみたら、いかにカネのかかった建物だったかが再認識されました。

バカバカしいほど高い吹き抜けの円天井や、いかにも古代ギリシャふうの彫像をべたべた並べたところは、私の個人的な趣味にはまったく合いません。

ただ、1970年代後半から80年代初頭に北の隣町、ボルチモアに住んでいてときどきユニオン駅も使っていたころにはだだっ広いだけでなんと殺伐とした場所かと感じただけでしたから、そのころに比べれば大きな進歩は感じとれます。

欧米と日本では、公共施設を造るときの優先順位が正反対

アメリカがクルマ社会化する前の1930年代までは、鉄道駅ももちろん1940~80年代ほど寂れきっていたわけではなく、それなりに駅構内の施設も整っていました。
ただ、そのころでさえ、駅にあった施設の中身には、庶民が買いものや飲食を便利にできるようにという発想はみじんもありませんでした。
大きな駅には必ず貴賓室がありました。現代の空港にあるファーストクラスラウンジのようなものです。そこでは、腕のいいシェフのつくる温かい食事もワインも供されていたことでしょう。
アメリカ全土を飛び回る忙しい人物が、乗り継ぎの待ち時間を利用して髪を刈ってもらうための床屋もありました。
これこそユニオン駅の立地の不便さを物語ると言えるのが、遺体安置室まであったことです。欧米のキリスト教徒は火葬を極端に嫌いますから、遺体をお墓に埋葬するまでは人体よりふた回りぐらい大きい立派なお棺に入れて水平に並べて置けるスペースが必要です。
しかも肉親以外にとって人の遺体はあまり気味の良いものではないので、遺体安置室は都心部にはめったに存在しない施設です。
逆に、スペースがありあまっている巨大駅は、都会の喧騒から適度に離れているという条件にもかないますから、最適の場所だったわけです。
ただ、宮殿のような巨大駅の奥まったところに、埋葬の手筈が整うまで遺体を安置しておけるのは、やはり裕福な家庭だけだっただろうと思います。
欧米の大きな駅はたとえ路線の途中にあっても、ターミナル(頭端=終着)駅形式になっていることが多いです。つまり、引き込み線でいったん車止めに停車させてから、ゆったり乗降したあとで、改めて引き込み線から本線に戻って終着駅を目指すわけです。
一方、日本の駅はどんなに大きな拠点駅でも、終点でも始点でもない途中駅構造になっていることが多いのです。
何が違うかというと、途中駅の場合、たいていは自分が乗りたい列車の発着ホームに行くまでに線路をまたぐために二階にのぼるか、線路をくぐるために地下にもぐるかする必要があります。
エレベーターやエスカレーターのなかった時代には、とくに年配の方々にはほんのわずかな高低差でも垂直移動が混じるのは一苦労です。
そこで、貴族、地主、大金持ちが馬車(のちには自動車)で正面入り口まで乗り付けてから、構内は水平移動だけで済むターミナル構造にしていたわけです。
その利点は、庶民も共有していたのではないかとお思いかもしれません。
ただ、正面入り口から階段の昇り降りなしでどのホームにも行けるという利便性の代償として、広大なスペースの車寄せが不可欠だったことを思い出していただきたいと思います。
乗りものを使わず徒歩でひんぱんに駅を利用する庶民にとっては、住宅や店舗などがある町中からの距離が短いほうが、駅構内がすべて水平移動で済むことよりずっと望ましかったことでしょう

ニューヨークの2大駅は、マンハッタンのどまん中にあると思いがちだが……

なお、ニューヨークのペン(シルヴェニア)駅とグランドセントラル駅は、マンハッタンの中でもまさに都心中枢にあるじゃないかというご批判もあるかと思います。
たしかに、現代のニューヨークで南北方向の大通り(Avenue)で言えば4番街から6番街(なぜか土地っ子はThe Avenue of the Americas、両アメリカ街と呼びますが)、そして東西方向の通り(Street)で言えば40丁目(40th Street)からから44丁目(44th Street)は、マンハッタンの心臓部です。
この2つの駅を合わせて東京駅に見立てたら、東側の4番街方向が瀟洒なオフィスビルの林立する丸の内・大手町方面、西側の6番街方向が活気のある劇場や商業施設の並ぶ八重洲・日本橋・京橋方面という感じがします。
ただ、それはあくまでも現代アメリカ社会を見たときの印象です。
両駅が誕生した1910年代初頭には、南から開発の進んだマンハッタン島の中で、40丁目は北の郊外との境界線上にある場所でした。
開業の翌年に当たる1911年にペン駅を移した俯瞰写真をご覧ください。

背景にぼんやりと高い建物が見えますが、周辺にはほとんど高層ビルのない中で、たった1カ所だけ豪壮な宮殿のように屹立している姿が目に飛びこんできます。

そして、のちの鉄道衰退期にはムダに天井が高いだけと思わせるようになってしまった広大な円天井のはるか上から日光が降り注ぐ構内の写真を見ると、ヨーロッパ中世に建築における奇跡として出現したゴシック様式の大聖堂さながらと痛感します。

ヨーロッパで大司教がいる大聖堂だけに許された、尖塔の細長い窓と円天井の窓にステンドグラスを張り巡らせて、輝く陽光が七色に変化しながら降り注ぐ様子は、明らかに人間の卑小さと、神の恩恵の偉大さを体感するように周到に設計されたものです。

私は、ヨーロッパの思想的伝統を受け継ぐアメリカで、大きな公共施設を建てるときには必ずと言ってよいほど実用的にはムダの極地のような広く高い吹き抜けを造りこむのは、このキリスト教的な倫理観と密接に関係していると思います。
ちなみに、ワシントンのユニオン駅が大改装されたときにも、窓にはステンドグラスがはめこまれたようです。
ペン駅だけではなく、グランドセントラル駅の構内も視覚効果としてはまったく同じ線を狙っています。

こちらは、カラー写真になっていることからもおわかりのように、1990年代の大改装を終えてからのグランドセントラル駅です。

高みから降り注ぐ光の神々しさに反比例するように人間の卑小さを思い知らせる意図を感じるのは、私だけでしょうか?

セコいのは人間か、チープな造りの機械か?

そして、大改装で電光掲示板などは思い切って刷新したものの、切符売り場だけは相変わらず駅員が対面で乗客に売るシステムが圧倒的に優勢です。

アメリカは鉄道が極端に衰退しているため、国や州や自治体が慢性的に赤字を補填しても、近距離でさえそうとう乗車賃は高くつきます。

そして、これは鉄道切符にかぎらずあらゆるものを買うときの自動販売機が、これが先進国の機械かとあきれるほどお粗末なのです。
料金だけ吞みこんでしまって品物は出てこない、一応出てくるけどおつりが出ないといったことがザラです。ですからアメリカ人は高価(と言っても5ドル札、日本円にすれば580円以上程度ですが)なものを買うときには基本的に自動販売機は使いません
切符を売るだけでもかなり大勢の駅員が必要ですから、それでなくても赤字運行の鉄道を維持するための社会全体の負担がますます増えるわけです。
もっとセコい話をご紹介しましょう。
アメリカでもやっとリサイクル熱が盛り上がって、読み終わった新聞紙を捨てるためのゴミ箱が初めてグランドセントラル駅に設置されたのは、1990年のことでした。
ところが、ニューヨーク・タイムズ紙は、その後グランドセントラル駅周辺での同紙の売上が激減したことに気づきました
そこで駅周辺で入念な追跡調査をおこなったところ、ゴミ箱に捨ててある新聞をほかの乗客が拾って読んでいることを発見しました。
なんと10年以上の歳月をかけた研究開発の結果、一度捨てた新聞紙は絶対に取り出すことができないゴミ箱をグランドセントラル駅に設置させたのが、2001年のことでした。
昔は格調高い一流紙だったニューヨーク・タイムズでさえ、たった1駅の売上部数の激減を取り戻すのに10年以上の期間をかけて研究開発をするほど、切羽詰まった経営状態になっているのです。
これでは、大スポンサーの言いなりになってデマ宣伝の先棒を担ぐようになったのも、致し方のないことなのでしょう。
製造現場の足腰が弱っていますから、生活のあらゆる場面で機械化、自動化が進むにつれて、人心がすさんでいきます
知的エリートたちは、自分たちがはるか高みから降り注ぐ陽光にでもなったような気で、このあわれな大衆たちのセコい抵抗を見下しています
社会全体の亀裂は深まるばかりです。

クルマ社会の弊害を象徴する廃墟、デトロイトのミシガンセントラル駅

じつは、アメリカでもムダにだだっ広くて庶民を見下す意識が見え透いた壮麗な御殿のような駅舎から脱却する試みはあったのです。
しかし、なんとも皮肉なことにその駅舎が建てられたのは、アメリカの、いや世界中の自動車首都となってしまったデトロイトの拠点駅としてでした。
1914年に大火で焼失した旧ミシガンセントラル駅に代わるために急いで供用された新駅舎は、アメリカの大都市拠点駅としては画期的な設計思想を体現していました。
高さ70メートルは当時としては世界一背の高い鉄道駅の記録をつくったのですが、ムダに高いわけではなく、2層のメザニンの上に13階のオフィススペースを乗せた、実用性重視の建物でした。
旧駅舎が都心からかなり離れた場所に引き込み線ターミナルで列車を誘導していたのに比べて、やや都心に接近した立地に途中駅構造で建てられたのも斬新でした。
オフィス就業者が市電で都心や住宅地から通っていたあいだは、なんとか好立地のオフィスとしての地位を確保していました。
ところが不幸にもまったく必要性を想定していなかった自動車の駐車用スペースを取っていなかったため、オフィス就業者が自家用車を持つようになり、市電が廃線になってからは、非常にアクセスの悪い巨大空間が取り残されてしまったのです。
1960年代後半からは、かろうじて日に何本かの列車が発着するだけで上層のオフィスはがら空き、そして1988年に正式に路線も廃線、駅舎も廃棄されるころには、テナントと立ち退き交渉をする必要がないほど寂れ果てていたと言います。
2018年に宿敵とも言うべきフォード社に買収され、今は歴史遺跡として見学者に公開しながら、再開発計画を立案中だそうです。
公共施設と言えば大衆にとっての利便性よりも荘厳な権威に満ちた大建築を志向するアメリカの知的エリートに対するささやかな抵抗は、立地の不運もあって初陣のうちに鎮圧されてしまったわけです。

現代アメリカの鉄道駅たるや、後世人はクルマ社会の墓標と呼ぶだろう

1970年代あたりからアメリカでも、あまりにもエネルギーとスペースを浪費するクルマ社会への反発は強まっています。
しかし、残念なことに鉄道を実用的な陸上交通の手段として再構築することはほぼ不可能でしょう
鉄道復興を目指す人たち自身が、大勢人が集まる施設をつくろうとすると、1台で人間7~8人分のスペースを取るクルマの置き場をどう確保するかしか考えていないからです。

これは、ユニオン駅にも近いワシントン郊外のヴァージニア州フェアファックス市にある公害鉄道駅のひとつの空中撮影図です。

もちろん、郊外鉄道駅の誤変換ですが、これほど広大な空間をただただクルマを停めておくだけのために占有するのは、立派にスペース公害になっていると思い返し、そのままにしておきました

日本の大都市は、虚飾を排し実用本位

ほぼ同じ広さの空間を、東急東横線学芸大学駅周辺ではどう活用しているかご覧ください。

同じ広さの中にある物品販売店、飲食店、個人消費者向けサービス施設は数えきれないほどです。

ためしに、グーグルマップでレストランを検索してみましょう。

約一世代前なら、フレンチ、すし屋、中華、焼き肉屋、ラーメン屋が圧倒的に多かったのでしょうが、最近はイタリアン、スペインバルふう、エスニック、カリフォルニアふうが優勢なようです。

たいていの国で大衆の食生活は保守的なのがふつうですが、日本の外食には時代ごとの流行があり、しかも良心的な価格でかなり母国の料理に近いものを出す店も、日本流にアレンジしたものを出す店も多種多様に繁盛しています
そして、同じ沿線に自由が丘や田園調布があることから、「ハイソ」な印象を持つ人が多い駅ですが、行ってみれば狭い路地一杯にふつうの生活をしている人たちが歩き、自転車を漕いでいる生活感あふれる活気に満ちた街です。

私は、この雑踏の中の多様性にこそ、日本の大衆の未来はあると確信しています。

なお、欧米諸国ではターミナル間を往復運行するだけの鉄道が孤立分散していたからクルマに負けたが、日本では途中駅構造で乗り継ぎ乗り換えをしやすいほんとうの意味での鉄道網があったからクルマに負けなかったというのが、私の持論です。
エネルギー制約がきつくなるほど、日本の鉄道網の省エネ性能の高さが輝きを増します
この点に関しては、手前味噌ながら拙著『日本文明・世界最強の秘密』(PHP研究所、2008年)をお読みいただければ幸いです。

また、大衆レベルでの日本の食文化の多様性に関しては畑中三応子著『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫、2018年)が必読です。


編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年1月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。