環境と経済

池田 直渡

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「地球環境はもう待った無しなので、雇用の話なんてしている場合じゃ無い」という説をよく見かける。

では伺うが何故地球環境はもう待った無しなのだろうか? それは人類が生き延びていくために困るからであって、その根底にあるのは「人命の尊さ」なのだと思う。もしそれがこちらの読み違いで「地球そのもの」や「人類以外の生物」が大事で、そのためには「人類の犠牲は厭うべきではない」となるのであればまた話は違う。

しかし、「人命の尊さ」で理解が正しいのであれば「雇用」は人が生きて行く術であって、そこを勝手に「金儲け」と読み替えるのはおかしい。「ちょっとぐらいは我慢しろ」のつもりで言っているならば、それは社会を知らなすぎる。

人が生きて行く上で「衣食住」は欠かせない。その衣食住を支えるのが金であり、それを得る手段こそが雇用である。もちろん世の中には人に雇われずに自分で稼いで衣食住を賄える者もいるが、誰にでもできることではないし、仮にそういう能力があったとしても、全員がそうなることは物理的に不可能だ。ひとりで出来ることは良いが、多数の人々が協力しなければ成し遂げられない事業は、必ず雇用を伴う。だから雇用は社会を担う多くの事業の根幹なのだ。

個別の個人の話だけをするならば、むしろ筆者は自分で稼いで行かれるので、雇用とは直接関係ないが、それでも、想像力を巡らせれば、世に住む多くの人に取って雇用は命を繋いでいくために欠くべからざるものであることは当たり前に受け止めている。

雇用が大事であることと、自然の淘汰を受け入れる話はイコールではない。流転する社会の中で、時代と共に無くなって行く職業は確かに存在するし、そういうものを不自然に生きながらえさせる必要はないが、「変化という正義」に名を借りて、強制的に滅ぼす行為は淘汰のメカニズムとは別種のものだ。それは意味の取り違いである。

自然が大事、地球環境が大事。それは原則的に正義だが、そこには人が生きて行くことと対立しないという条件が付いているのだ。仮に温暖化を止めるために70億人の人口は多すぎ、半数が適正だとしたら、どこの誰が家族の内半数が死ぬことを受け入れられるだろうか? 仮にそれが人類の全滅を防ぐためであったとし、そこにどれだけ合理性があったとしても、そんな恐ろしい判断ができる人は希だ。

経済を甘く見ない方が良い。経済は人が生きて行くために長い時間をかけて作られてきた人類の大事なシステムである。


編集部より:この記事は自動車経済評論家の池田直渡氏のnote 2021年12月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は池田直渡氏のnoteをご覧ください。