こんにちは。
前回の投稿に関していくつかの補足質問をいただきましたので、今日はそれにお答えします。
ご質問1: 日本は初等教育に優れていてもSTEM教育は遅れていると言われます。これでは次世代の人材育成が遅れてしまい、国際競争力を下げるのではと思うのですが、どのようにお考えでしょうか?
お答え1: しっかりした基礎を学んでいない児童や生徒に、彼らの理解力をはるかに超える知識や技術を教えこんでも、まったく実際的な問題解決能力を向上させる役に立ちません。
アメリカの公立小中学校で初中等教育を受けた子どもたちは、ほとんどが掛け算や割り算はおろか足し算や引き算さえどういう仕組みで正しい答えが出るのかを理解するチャンスを与えられていません。
まあ、公立小中学校の教師たちの多くも、基礎を省略する教育で大学まで出てしまった人びとが多いのが実情です。足し算、引き算なら理屈で説明できるかもしれませんが、小さな数を大きな数で割るときの位取りとなると、お手上げです。
子どもたちに「なんで他の数ではなくて、この数だけが正解なの?」と聞かれると、電卓を持ち出して、「何度叩いてもおんなじ答えが出るだろ? だからこれが正解なんだよ」と答える程度の算数理解しかなくても務まる職業になっているから、無理もありませんが。
STEMは、根のないところに茎を伸ばし枝葉を茂らせる無理筋だ
こういう子どもたちに、当人たちもあまり本質的なところを理解できていない科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、数学(Mathematics)を単一教科ごとではなく総合して教えるというのは、あまりにも「意欲的」すぎる方針です。
STEMが複雑にからみ合った問題を与えたところで、数学という根がしかっかり土に食いこんでいないうちに科学という茎を伸ばし、技術や工学という枝葉を生い茂らせようとするのですから、土台無理な話です。
たとえて言えば、免許は持っているけれどもほとんど運転していないペーパードライバーが、まだ免許も取っていない初心者に、いきなりカーレーサーになるための訓練を施すようなものです。
私には、現代アメリカで提唱されるあらゆる分野での「新方針」に関する持論があります。
それはまず、全体の6~7割がすでにしっかり権力も財力も握っている知的エリートたちが、ますます大衆を犠牲にして自分たちだけが肥え太るための改悪だというところから出発します。
残る3~4割の大部分が、そこでどんどん苦しくなる大衆の不平不満に直接対応しなければならない市役所や町役場の職員や公立小中学校の教師が、大衆をなだめるための弥縫策だというものです。
全体の2~3%ぐらいは、自分の正義感に酔いしれたい偏屈な人たちに花を持たせて見せ場をつくってやるガス抜き装置、あるいは安全弁です。
ただ、たとえば「ほかの動植物にこれ以上迷惑をかけないように、人間が生きてきた足跡(footprint)をなるべく小さくしましょう」という環境運動などは、この手の自己満足的な安全弁の典型でした。
しかし、需要減少でエネルギー産業が慢性不況に陥ったとたん、少ししか売れなくても高く売るためには「ご禁制品なら高く売れる」の論理で表向きは目の敵にされているエネルギー産業が乗ってきて巨大利権に成長したのですから、油断はできません。
さて、STEM教育ですが、これはもう「うちの子は何年学校に行っていても、足し算や引き算さえろくにできないじゃないの」という大衆の不満をなだめるためにやっていることでしょう。
「足し算、引き算はできなくても、あなた方の子ども時代には想像もできなかった高度な教育を授けているんです」という言い訳という以外にこんなに実効性に低い方針を取る理由は理解できません。
こういう大風呂敷を広げただけでなんの中身もない教育方針を褒めそやすのは、いったいどういう人なのだろうと、添えていただいたリンク先の記事を読んでみました。
すると、こんなことが書いてあります。
「『学校外でコンピューターを使って宿題をする』と答えた割合はデンマーク、オーストラリア、メキシコの生徒が90%以上だった一方で、日本の生徒はわずか9%で、調査国中で他を大きく引き離して最下位でした。」ーー『Newsweek for Woman 日本版』、2021年3月10日
すばらしいことです。日本の子どもたちの91%が、自分の頭と手で筆算をして間違えながら仕組みを理解していくチャンスを与えられています。
一方、デンマークやオーストラリアやメキシコの子どもたちの90%以上は、そういう貴重な機会を与えられず、間違えたら「次にはもっと慎重にPCのキーやタッチパネルを打とう」という教訓しか学べない宿題をやっているのです。
早期バイリンガルほど有害な教育法はない
なお、この記事は早期バイリンガル教育を実践している人が書いているようですが、私は早期バイリンガル教育ほど自分の頭でものを考える子どもをはぐくむのに有害な教育法はないと確信しております。
人間の頭は、抽象的な概念だけをこねくり回して「考える」ことができるような構造にはなっていません。必ずことばを使って考えています。
早期バイリンガル(あるいはトリリンガル)教育で2~3カ国語をネイティブスピーカーのように話せるようになってしまった子どもたちは、その後一生、折に触れて「自分は今何語でものを考えているのだろう」という不安にさいなまれるそうです。
そこまで流暢に話せるようにならなかった子どもたちは幸せですが、やはり大きな問題を抱えて生きていくことになります。
家族や近所の人たちと話すときに使う母語は「あいまいで論理的厳密性を欠く、教育水準の低い人たちの使うことば」、学校や保育園・幼稚園あるいは語学教室で習う第2言語は「正確で高度な理解力を要求される、教育水準の高い人たちの使うことば」と考えがちです。
世界中どこに行っても、他愛のない日常のおしゃべりはあいまいで多義的でニュアンスに富んだ高度な言語技術を必要とし、たいていの場合は外国語か外来語を厳密に定義した上で使って論理的に組み立てていく学術用語でのやり取りは、言語技術としては低水準です。
でも、小中学校の児童や生徒にそんな判断ができるはずもありません。こうして、やみくもに自分の周囲にいる人々を軽蔑し、第2言語として習い覚えたことばをネイティブとして話している人たちを崇拝する人たちが形成されていくわけです。
ただ、ことばひとつひとつの定義は厳密なので外来語のほうが使いやすいと言っても、ほんとうにオリジナルな学術研究は、母語でやったほうがはるかに生産性が高いことは歴然たる事実です。
日本のノーベル賞受賞者激増は語学ベタのおかげ
1950~60年代の実績を評価される1980年代ごろまでは、フランス、ドイツ、スイス、イタリアの研究者たちはノーベル賞各分野の受賞常連国でした。
ところが、だいたいにおいて1970年代以降の業績が評価されるようになった1990年代以降は英語国と日本しか受賞常連国がなくなってしまったことにお気づきでしょうか。
ヨーロッパの英語以外のことばを母語とする学者たちが、自国語の論文ではマーケットも狭すぎるし、ほとんど英語でも達意の論文を書ける人たちですから、英語でしか論文を発表しなくなったのです。
日本の場合、世界的に通用する研究者たちでも英語を聴いたり話したりはまったくダメ、読み書きもおぼつかない人たちが多いこともあり、今もなお1億2000万人台を維持している日本語読者層もありということで、日本語で研究論文を書きつづけております。
その差が、ノーベル賞受賞者数の激変に表われているのだと思います。
国際競争力を世界的に一流と評価される研究者、実務家、教育者を育てることと解釈すれば、STEMのような脇道にそれず、早期語学教育のように有害無益な方向にも流されずに、母語で地道に基礎的な分野の理解を深める教育をすることがいちばんだと思います。
ご質問2: 私立大学の文系を志望し勉強しない大学生活を送る学生が増え、理数系の人材の育成につながらないし、優秀な人材が育たないのではと懸念するのですが、どのようにお考えでしょうか?
お答え2: いわゆる理系離れ問題ですが、私はまったく心配していません。そもそも大学生時代というのは、まだ自分が何をしたいのかもわからず、理系・文系と言っても数学ができるからとかできないから程度で決めているようですが、私はそれでいいと思っています。
なにしろ、自分が将来何をしたいかもわからず通っているところなのですから、別に授業の勉強だけに集中する必要もなく、趣味に没頭したり、交友関係を築いたり、政治社会運動や宗教活動にはまったりするのも結構ではないでしょうか。
理系離れは心配無用
日本の企業は、学生の学部や専攻分野などほとんど意識せずに採用して、文系の学生を研究開発分野に配属したり、理系の人を営業に配属したりして、大過なくやっています。
それどころか、企業の行き当たりばったりな人員配置によって、自分の隠れた才能を開花させてもらう人もいるようです。
そんないい加減な人材起用があまり大きな問題もなく通用するのも、理系・文系を問わず、基礎学力が諸外国と比べておしなべて高いからでしょう。次のグラフをご覧ください。
「理系離れ」を叫ぶ人たちは、実際のデータを見ているのでしょうか。
このグラフはOECDに加盟している諸国の、日本で言えば高校2年生に当たる人たちの数学リテラシー、科学リテラシー、母語読解力を試すPISA共通試験の結果です。
数学で1位、科学で2位なのに、いったい何が不足で危機感を煽っているのか、わかりません。
高校のうちに、これだけしっかり基礎を学んでおけば、「大学選択を間違えて文化系に行ってしまったけど、じつは理科系の仕事がやりたかった」という人は、十分取り返しがつくはずです。
国語教育の劣化こそ憂慮すべき
私が懸念しているのは、まったく正反対に母語読解力の低下です。
2000~06年も8位、12位、12位と低かったのですが、2009年は5位、2012年は1位に登り詰めたのに、2015年に6位、2018年では11位と一挙に第3集団のまん中まで下がっています。
日本の国語教育が、謎解き遊びのような入試問題解法のテクニックと、教師の趣味に大きく左右される文学鑑賞にわかれてしまって、自分の意思を的確に伝え、相手の意思をなるべく正確にくみ取る実用的な訓練に欠けていたのは、昔からのことです。
ですが、近年幼少期に早期バイリンガル教育という不幸な実験の犠牲になってしまい、その後ずっと母語でのコミュニケーションに問題を抱えている人たちが高校生のあいだでも増えているのではないでしょうか。
私は、こちらのほうが理系離れよりはるかに心配です。
ご質問3: 次世代に必要な先端技術を外国に頼るとなると国際競争力が低下するのではないかと思いますし、変化の激しい今のような時代には常に新しいことを学習していかなければ人材の質が低下し、国際競争に勝てないのではと思うのですが、いかがでしょうか?
お答え3: 技術に原産国表示はありません。いや、あまり本質的な変革ではない小手先の変化程度なら、どこの国だけの「お家芸」だというようなこともあるでしょう。それは、導入がむずかしいからではなく、わざわざ導入する価値のない程度の技術だからです。
でも、本質的な変革で時代の要求に合ったものであれば、あっという間に世界中に普及しますし、最初に思いついた人や企業の所属する国に莫大な技術料収入をもたらすかもしれません。
技術料を払って利用すれば得だと思えば利用すればいいし、そうでなければ利用しないだけのことです。どこの国のだれが発見、あるいは発明した技術かということと、どこの国で最も有効に使いこなしたかは、ほとんど無関係です。
いつの時代に生きている人も、「自分が生きているのは激動の時代だ」と思うものです。
ですが、自分が新しいことを学んだほうがいいか、今までどおりでいいかは、時代の変遷の速さ、遅さとはなんの関係もありません。自分にとって必要性が高い技術は学び、必要性が低い技術は学ばないだけのことです。
人材の質とおっしゃるとき、たとえば知能指数検査で取った点数のように、直線上に上から下まで並んでいて、各国別に平均値を比べるとどこの国が自国より上とか、下とかそういうことを想定していらっしゃるのではないでしょうか。
ほんとうに幸いなことに、人間の能力は1次元でもなく、2次元でもなく、無数の次元を使っても単一の答えが出る評価法はありません。
先端科学技術に乗り遅れないように付いていけば、限られた人材を有効に利用できるという考え方もあるでしょう。
ただ、予測というのはとくに未来についてはむずかしい作業でして、たいていの場合大勢の人たちが最先端分野だと思っていたところが袋小路だったり、まったく先の見えない衰退分野と思われていた分野が復活したりするものです。
わずかに法則性があるとすれば、大多数の人が有望分野と見ているところはもう発展の限界に近づいているということぐらいでしょう。
ご質問4: 論文数や研究開発費が停滞していることは由々しき事態と思うのですが、どのように見ておられますか?
お答え4: 学術論文は量産されるコモディティではありません。研究者で発表した論文数を誇る人がいたら、それはほとんど意味のある論文を書いていなくて、ほかに自慢できることがないのを問わず語りに告白しているようなものです。
中国並みに博士号取得者を増やせば、学術論文の本数も激増するでしょう。
中身がすかすかで安心してからめる内容なら、同じように自分の論文の質に自信のない研究者たちと引用し合って、研究者の力量を引用された回数で測るアメリカや中国の研究機関からは重宝されるかもしれません。
学界全体が論文の本数を競うようになったら、じっくり時間をかけて独創性のある論文を書く良心的な研究者ははじき出されてしまうでしょう。論文数で学術研究者たちの社会への貢献度を測ろうとするのは、非常に危険です。
研究開発費を増やせば研究活動が活発になるだろうというのは、もっと危険な発想です。
国や自治体が学術研究にかけられる費用は限定されています。カネさえかければいいものができるだろうという発想はまったく通用しない世界で、費用対効果があまりにも不確定だからです。
すると、学術研究費を増やすために頼るのは、有力な産業団体、大企業、ボロ儲けした企業創業者が設立した財団や基金、医師(やアメリカでは弁護士)などの高額所得者の多い職能団体といった顔ぶれになります。
こういう諸団体が、ほんとうに学術進歩のために大金を拠出するとお考えでしょうか? 本音では自分たちのために儲かる研究をしてほしいと願っているに決まっています。
しかも、アメリカのように贈収賄が合法化されていて、庶民のあいだにまで拝金主義が浸透している国では、研究者だって特定の団体からもらった資金で研究をするときにはその団体に有利な方向に結論を出したがります。
見落としがちなのは、このギヴアンドテイクの関係が、たんに儲かりそうな研究のできる優秀な研究者とスポンサーのあいだだけではなく、儲かりそうな研究をしている、いないにかかわらず大学や研究所全体とスポンサーとの関係にも広がってしまうことです。
次のグラフがその原因を示しています。
海外の研究機関が優秀な研究者を招き寄せるために決め手としているのは、「自由度の高い研究費の提供」となっています。つまり、「どんな研究課題について、どういうスタンスから研究しても自由ですよ」という一見ヒモ付きではない研究費をばら撒くわけです。
でも、その財源はどこにあるのでしょうか? 金持ち学生の多い一流私立大学では授業料収入もかなり高額に達します。ただ、多くの大学や研究機関が競争で優秀な研究者を取り合うわけですから、それだけでは足りません。
大きな資金を動かす財団や基金から、スポンサーのご意向に合う研究を器用にやってのける研究者が引っ張ってきた巨額資金の一部も共通のプールに入れることになります。
そして、理事会や教授会は、だれがどれだけの資金を引っ張ってきたかをハデに宣伝します。彼ら花形研究者のおかげで、若手研究者たちの生活水準が保たれていると学内全体に釘を刺すわけです。
たとえば、テニュア(永続講義権)を持った教授が、特定の研究者がスポンサーのためにおこなっている研究を批判したくなったとしましょう。ご当人はその結果、儲かるけれども倫理的に問題のある研究をやめさせることに成功しても、身分は安泰でしょう。
しかし、学内共通資金のプールが小さくなれば、若手研究者たち全体の生活水準を下げざるを得ないかもしれません。
こうして、一見自由な研究費が潤沢にふるまわれる大学や研究機関では、その「自由」な研究費が研究者全員を往々にして非倫理的なほど特定のスポンサーに有利な研究の共犯者にしてしまうわけです。
そこまで拝金主義が徹底せず、研究開発費の大盤振る舞いもめったにない日本の大学や研究機関は、はるかに健全だと思います。
編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年1月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。