クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス

増田 悦佐

こんにちは。

今日は、去年の8月末以来ずいぶん長いこと休んでいたシリーズの第3回を書こうと思います。

前回の本文は「自動車は町を破壊するだけではなく、町の記憶までかき消してしまうようです」と結んだのですが、まず町の記憶がかき消されてしまい、その後徐々に町全体が壊死していく過程を見るような都市が見つかったからです。

19世紀末から20世紀初頭のセントルイスは勃興期の活気に溢れていた

不思議なことに、今回もまたMGMミュージカル映画黄金時代の傑作で、しかも主演女優がジュディ・ガーランドという『ミート・ミー・イン・セントルイス(邦題:若草の頃)』から説きおこすことになります。

まあ、不思議というより書き手の趣味が多少(大いに?)混じっているのも事実ですが。

舞台は19世紀末から20世紀初頭、1904年の万国博開催を目前に控え、人口も中西部ではシカゴに次ぐ2位で、全米でも第4位にのし上がりつつあった活気溢れる都市、セントルイスです。

筋はもう、落としどころが初めからお約束どおりとわかる他愛ないミュージカルでした。

4姉妹の中でもとくに勝ち気な、ジュディ・ガーランド扮する次女の隣の家の好青年に対する初恋が初デートの気まずさで怪しくなったり、もっと豊かな暮らしを目指す父親がニューヨークに引っ越そうと言い出して家庭内にすきま風が吹いたり、といった他愛のないエピソードの積み重ねなのです。

5年前の1939年に16歳で『オズの魔法使』で主役ドロシーを演じてブレークしたジュディは、21歳になった1944年に、この映画で少女から成熟した女性への転換期をみごとに演じました。

さらに4年後の1948年には、前回ご紹介した『イースター・パレード』で、ミュージカル女優ナンバーワンの評価を固めたわけです。

テーマソングにもなっている<ミート・ミー・イン・セントルイス、ルイー>という曲が20世紀初めに書かれていることからもおわかりいただけるように、挿入歌の大部分が19世紀後半から20世紀初頭にヒットしていた、いわば懐メロです。

ただ、この映画用のオリジナル曲も何曲か書かれました。

そのうちで<ザ・ボーイ・ネクスト・ドア(隣の男の子)>、<ハヴ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス(良いクリスマスをお過ごし)>、そして<トロリーソング(市街電車の歌)>は、スタンダードナンバーになっています。

満員で運行する市街電車の乗客が、華やかに着飾った若い男女ばかりというのも、ミュージカル映画ならではの非現実的なシーンですが、電車がひんぱんに行き来する町の賑やかさは伝わってきます。ところが、この映画の封切り直後の第二次世界大戦が終わったころから、セントルイスは徐々に衰退に転じていきます。自家用車が普及すると、自動車が走るスペースを確保するために道路拡幅、車線追加の工事がひっきりなしに実施されるとともに、邪魔者扱いされた市街電車が次々に撤去されていきました。

セントルイス衰退の原因はクルマ社会化だけではない

ただ、それはアメリカ全土で進行していた事態で、セントルイスという町の地位が低下する理由にはなりません。

ミシシッピ川の河川交通で栄えたセントルイスの場合、客船も貨物船も鉄道・自動車の普及でさびれたために、旧市街中心部に当たる河岸地区が低所得者層が集中して住む場所になっていたのです。

この目障りな低所得者居住区を一掃するとともに、大西部開拓の玄関口としてのセントルイスの地位を象徴する壮大なモニュメントを築こうと考えた野心家がいました。

弁護士であり、まだ緒に着いたばかりの公民権運動の活動家でもあった、ルーサー・イーライ・スミスという人です。

彼は、おそらく同じように野心家だった当時のセントルイス市長に勧めて、市の正式な専門行政官として都市計画官というポストを1930年代早々に創設させました。

こうしてセントルイス市はアメリカで初めて、世界中でも最初か2番目に早く、プランどおりに計画を実行する行政権限を持った都市改造家たちが活躍する場を創りだしたしたのです。

「成果」はたちまち現われました。たとえば、全米各地の都市で用途別に地域を分け、ここは住宅専用、ここは商業地、ここは工業地といったゾーニングが以前よりずっと厳格におこなわれるようになったのです。

まことに個人的な好き嫌いの問題になってしまって恐縮ですが、私はきびしい用途別の区分けによって整備された秩序だった街並みが嫌いです。とくに、住宅専用地区に個人営業の小さな店を開くことさえ禁止されているような街並みは、まっぴらご免です。

この景観美のために、日常生活のために必要な移動を最短距離で最小の時間内に済ませたいと思う住民にどれだけムダな移動コストと時間を使わせているかと考えると、腹が立つからです。

さて、ルーサー・E・スミスが1933年に始めた巨大モニュメント建設計画は、次第に支持を拡げ、1936年には市議会も起債をオーケーし、当時のF・D・ローズヴェルト大統領の行政命令も獲得して、あとは財源確保と計画の具体化を待つのみという状態になりました。

その後、艱難辛苦の30年余りの歳月を経て、めでたく1968年に竣工するまでの経緯は、あとから年表形式でご紹介します。

ただ、着想から竣工まで35~36年もかかったこのビッグプロジェクトで、用地取得と整地だけは計画がゴーサインを得てからたったの6年で完了し、1942年には次の写真でご覧いただくようにきれいになっていました。

この写真でぽつん、ぽつんと残っている建物は、用地買収が遅れているのではなく、歴史的建造物として意図的に残してあるものばかりです。それもそもはずで、用地は個別の土地ごとに地主と価格交渉をして買収したのではなく、condemnationとして強制収用したからです。辞書を引くと、condemnationとは有罪宣告とか、非難決議とか、咎めだてと出ています。つまり、強引に「本来建ててはいけないところに建てたものだから、そこそこの補償金は出してやるから出て行け」というやり方で取得したのです。

これはもう、「あとからできた法律で既成事実を裁いてはいけない」というあらゆる法律の根本原則に反する行為ですが、とにかく押し通してしまいました。やはり、市当局や地元財界の有力者の中に、リバーフロントの利便性の高そうな土地がさびれて低所得者層の居住区になっていることをかなり不快に感じていた人が多かったのでしょう。

しかし、計画は順調に進展せず、本来であれば一等地になっても良さそうな場所がその後30年以上にわたって更地のまま放置されていたのです。計画の遅延については、やっと平和が戻ったと思ったら朝鮮戦争が始まったという不可抗力的な部分もあります。

ですが、この空白期間は町全体が記憶喪失状態に陥ってしまったと言いたくなるような深刻な影響を及ぼしました

壮大な景観美と、人為的につくられた記憶の真空地帯

私が今回セントルイスを取り上げようと思い立つきっかけとなった2枚組写真をご紹介しましょう。

地元のSNS(オルタナティブ)メディアである『リバーフロント・タイムズ』に、「ここはいったいどこでしょう? 今はゲートウェイ・アーチ国立公園になっている旧リバーフロント地区の中であるとは思うのですが」という記事が掲載されました。

そして、読者の投稿の中に、ほぼこの場所に間違いないと断定するものがあり、正面角の薬品販売会社の看板や、手前のパブのような店などを特定することができて、結論は次の場所だと決まりました

たしかに、道路付きもまったく違っていて、たまたまどなたかが鮮明な記憶をお持ちでなかったとしたら、とうてい同じ場所とは思えません。壮大なモニュメントという以外には建造物の種類さえ決まっていなかったころから、あの膨大な土地面積の大半は緑地として残し、広大な空間に建っているのはモニュメントと、ごく少数の歴史的建造物、博物館、劇場だけにするというのが、当初からの計画でした。そして、ご覧の地図でおわかりのように、この全体計画は忠実に守られています。

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すでにご紹介した都市計画官の活躍もあって、セントルイス市で建築許可を取れるビルは今でもこのアーチのてっぺんまでの高さの半分以下というふうに制限されています。ですから、セントルイスのやや低めのスカイラインの中に屹立するゲートウェイ・アーチ周辺の夜景は、とくにみごとです。

ですが、景観がきれいかきれいでないかは、個人の趣味によって評価が大きく変わります。その景観を美しく保つために、市街地中心部をほとんど実用性のないモニュメントと緑地に限定してしまうのは、あまりにも機会費用が高いのではないでしょうか。

もうひとつ、経済的な機会費用に勝るとも劣らないほど大きな損失があります。それは、街並みに関する記憶がまるで大量虐殺に遭ったとでもいうようにかき消されていることです。たしかに、建物に関する記憶は解体されるやいなや急速に風化していくというのは、元建設業界担当の証券アナリストとして、数え切れないほど多くの解体現場、建設現場を見てきた私の実感でもあります。

しかし、それはどんなに見慣れた風景であっても、決してその中に住んでいた人の実感ではなく、通りすがりの人間の実感に過ぎません。ところが、市道路下水道局専任カメラマンだった方の姓を冠して『リーメン「通りと下水溝」コレクション』と名付けられ、公立図書館に収蔵されている約1500葉の写真のうち数百葉もの風景写真はどうしても場所が特定できず、その大部分はどうやら旧リバーフロント地区のものらしいというのです。

隠しようのない住宅地差別の証拠を忘れ去りたかったのか

どう考えても、まだ1960~70年代ぐらいの比較的記憶の生々しかった時代に、「私が当時住んでいたところで、あの四つ角は横に通っているのが○○丁目で、縦が▲▲街です」と場所を特定する発言がはばかられる雰囲気があったとしか思えません。

そして、その雰囲気が薄れたころにはご記憶の方がいらっしゃらなくなってしまったということがあちこちで起きていたのではないでしょうか。

もし、そうだとすれば、その謎の沈黙を解くカギはこの風景が消滅した1930~40年代にはまだ強烈な居住地差別があり、一方新しい景観が誕生した1960~70年代にはそうした差別を糾弾する公民権運動がもっとも盛り上がっていたという時代背景にありそうです。

次から3枚の写真を比べてみていただきたいと思います。

最初は、1930年代当時に「意識の高い」市民の方々が、目の敵として一掃しようとしていた黒人居住地区の風景です。大不況の待っただ中ということもあり、子どもたちの着ている服などもボロボロです。そのへんは、個人の努力の範囲内と強弁することもできるでしょう。

ただ、広い歩道いっぱいに敷いてあるはずの敷石がろくに補修もされず放置されているところからは、明らかに市当局が白人居住区やオフィス街、繁栄している商店街と露骨に対応の差を付けていたフシが見受けられます。というのも、白人の方々が買いものをしていたと思える通りの整備状況はまったく違うからです。

お買いものに行くところか、帰りのお母さんと子どもでしょう。歩道のところどころにヒビ割れはありますが、敷石が浮いたり外れたりしないようにまめに整備しているのは明らかです。

こちらは、もう少しオフィス街に近い商店街でしょうか。手前の間口も広くどっしりした構えの店は、書店だと思います。歩道と車道の境には当時新発明であったと思われる、時間が来ると針がてっぺんに来る仕掛けのパーキングメーターまで設置してあります。

広いと言っても、全体で30~40ブロックぐらいの土地の中に、こうして大不況の中でもかなり豊かな暮らしをしている白人たちの居住地、商業地、オフィス街と、衣食住すべてにわたってきびしい生活をしている黒人居住区がひしめいていたわけです。

やはり、1960~70年代まで生きてきた白人の方々のあいだでは、この現実の中で暮らしていたことをすなおに認めにくいと感じる人も多かったのではないでしょうか。認めれば、当時の公民権運動を担っていた黒人や若く教育水準も高い白人によって「過去の罪」を糾弾されかねないという思いもあったでしょう。

セントルイス、イーストセントルイスから黒人が移住したファーガソンに残る禍根

きびしい生活環境に追いやられていた黒人の方々は積極的に声を上げ、自分たちが生きてきた場所の特定作業に早くから参加していたのではないかと思われるかもしれません。

ただ、それもまたかなりむずかしいことだったと思います。

セントルイスで大モニュメント建設計画が持ち上がったころ、ミシシッピ川を隔てた対岸の町、イリノイ州イーストセントルイスでも、同じように市街中心部に住んでいる大勢の黒人世帯を移住させる都市開発が実施されました

この両市から追い出された黒人の多くが移り住んだのは、近郊のミズーリ州ファーガソン市でした。

「どこかで聞いたことのある地名だな」と思われた方もいらっしゃるでしょう。

2014年に2車線の狭い車道を武器も携行せずに歩いていた当時18歳の黒人少年が、パトカーで巡回中の白人警官に「歩道を歩くように」と言われて口論となり、激昂した警官が至近距離で発砲した銃弾で亡くなった事件の現場となった町です。

これは「黒人の命も大切だ(BLM)」運動のきっかけともなった事件です。

まったく同じ状況だったとしても、車道を歩いていたのが白人少年だったら、あるいはもっと白人の多いコミュニティに住んでいて「分際をわきまえておとなしく振舞う」黒人少年だったら、起きなくて済んだ事件かもしれません

これは共和党を支持する保守派の意識を変えれば解決する問題ではない

「大都市中心部から醜悪な景観を追放するための巨大なモニュメント建設計画」が発案されてから、そろそろ1世紀が過ぎようとしています。それでもなお、アメリカの人種差別問題は、こんなに根深く残っているのです。

ご注意いただきたいのですが、私が言いたいのは「だから共和党保守派の連中の意識を変えて、人種や民族系統、あるいは性的なマイノリティが平等に権利を持つ社会にしなければならない」ということではありません

民主党リベラル派の人たちの多くは、そういう方向に意識を変えていけばあらゆる差別は解消されるはずだと主張しています。

ですが、結果的に大都市中心部から大勢の黒人を追い出すことになったゲートウェイ・アーチプロジェクトに大統領令でゴー・サインを出したF・D・ローズヴェルトも、竣工時の大統領だったリンドン・B・ジョンソンも民主党リベラル派でした。

落成式でもっとも地位の高い貴賓としてあいさつしたヒューバート・ハンフリー副大統領は「このプロジェクトがアメリカ中の大都市からスラム街を一掃するきっかけとなることを切実に願う」と述べています

ハンフリーは生粋の民主党リベラル派よりもっと「左」で、政界で頭角を現したのは民主農民労働者党という極小政党の党首として、ミネソタ州ミネアポリスという州随一の大都市の市長に当選してからでした。

大都市中心部に存在する「醜悪な」黒人居住区を物理的に一掃することは、比較的かんたんです。

ですが、歴代民主党副大統領の中ではかなり左寄りだったハンフリーでさえも、そこを追い出された黒人たちの多くは、自家用車も持たずに公共交通機関のまったく存在しない郊外や地方小都市でもっと不便な生活をしなければならないことに気づいていません

ときとして、民主党リベラル派はこういう深刻な問題に気づいているけれども知らんぷりをしている偽善者であって、自分たちの差別意識を比較的率直に表面に出してしまう共和党保守派よりよっぽどたちが悪いのではないかとさえ思います。

どうしてそこまで勘ぐるのかと、ご不審の方もいらっしゃるでしょう。

ですが、1960年代に「バスの座席を白人用と黒人用に分けるのは、区別はしていても平等だ」という屁理屈を押し通して極端な差別待遇をしていたアラバマ州などの公共交通機関の運営が違法だという連邦最高裁の判決が出てから、ある重大な変化が起きました

アメリカ中で「バスに乗るのは貧しい人だけ」という観念が急激に広まり、白人世帯のあいだでかなり低所得でも無理をして自家用車を持つ世帯が増えたのです。結果的に、バスに乗るのはほとんど黒人やヒスパニックのひとたちだけという状況は、今も続いています

自動車が陸上交通機関の主役となった社会では、金持ちも貧しい人も乗車賃さえ払えば、同じような時間で同じような場所を行き来することができるという平等性が失われてしまいます

自動車文明とは、本質的にそういう差別を容認し、さらに固定させるものだと思います。

ゲートウェイ・アーチが照らし出すアメリカ社会の深く鋭い亀裂

この壮大なモニュメント建設プロジェクトが、なぜ落成までこんなに長い歳月を要したのかを年表形式でまとめてみました。

やはり「まったく実用性のないものに大金を投ずるムダ」という批判は、かなり的を射ていると思います。

ただ、当時はそれまでかなり豊かに暮らしていた人たちのあいだでも、とにかく地元に大勢の働き手を必要とする仕事を引っ張ってくる政治家がいてくれるとありがたいと感じる世相だったことも、この計画が発進できた理由のひとつでしょう。

それにしても、もうひとつの核心を衝いた論点である「都心部から黒人居住区を一掃しようとする計画だ」という批判は、結局竣工時まで表面化しませんでした

計画期から施工期間を通じて唯一人種差別が問題となったのは、黒人組合員の多い組合からの「AFL-CIOが我々の参入を拒むのは人種差別だ」という批判だけでした。

この批判に対して、AFL-CIOは「いや、彼らは低賃金で仕事を引き受けるので、労働組合の理念に反する団体だ。だから入れてやらないだけだ」と応戦して、この論争は決着しました。

時代を感じさせるのは、当選した計画がフィンランドからの移民第2世代であり、自身もアメリカ国籍とともにフィンランド国籍も維持していたエーロ・サーリネンの設計によるものだったことへの「アーチはファシズムの象徴だ」という批判です。

枢軸国側に立ったドイツ、日本、イタリアは極悪人扱いで事実上連合国軍による信託統治が続いていたころも、枢軸国側で参戦し、ソ連軍と戦ったにもかかわらず、フィンランドだけは国土を占領統治されることはありませんでした。

もちろん、フィンランド国民にしてみれば「ソ連軍による自国領土の侵略を武力で阻止することだけが目的であって、他国を侵略する意図はまったくない正義の戦争だった」ということになります。

ですが、どんな戦争でどんなに攻撃的なスタンスを取った国でも、同じようなことを言うものです。

そういう意味では「枢軸国側での参戦」という大罪を犯したフィンランド国民が名誉あるプロジェクトの主設計者になることを、どうしてもすなおに受け入れられなかったアメリカ人もいたということでしょう。

計画当事者全員にとって鉄道は厳重に隠蔽すべき過去の遺物だった

私にとっていちばん興味深いのは、鉄道線路の移設に本建築とほぼ同じ長い年月を要したことです。

セントルイスは、もともとミシシッピ川の舟運を基盤に成長してきた都市です。

1960年代ともなると、河川を航行する貨物船は大いに、また貨物鉄道もやや衰退に転じていたとは言え、貨物列車と貨物船のあいだの貨物の積み換えなどに川岸を通る鉄道線路の存続はまだ不可欠でした

と同時に、このプロジェクトの用地周辺だけ、大きく内陸側に線路を迂回させることも莫大な用地買収費と長い歳月を必要とするので現実的ではありません。

なんとか川沿いに線路を走らせる状態のまま、プロジェクトのすぐそばにあった貨物積み換え駅を移転させる……それだけの工事のように感じます。

ところが、どうもこの計画の設計コンペ参加者もふくめて、当事者全員が鉄道は存在自体を隠蔽しなければならないほど恥ずかしい過去の遺物と見ていたようなのです。

その隠蔽法としては、本格的なトンネルを掘る、開削工事で掘った堀割りに線路を敷設してから天蓋をかぶせて隠す、堀割りを深めに掘って上には蓋をかぶせないままにするという3案が出ました。

サーリネンなどは、もし線路移設法で自分の案が採用されなければ、全体計画の主設計者の地位も降りると主張するほど入れこんでいました。

でも、だれひとりとして「ときどき壮大なアーチの根元のあたりを列車が行き来しているのが見えてもいいじゃないか」と主張した気配はありません

結局、川岸のかなり軟弱な地盤の場所に本格的なトンネルを通したわけですが、鉄道線路や列車が見えていても問題はないと考えていたら、ずいぶん時間と費用を節約できていたのではないかと思います。

もちろんノスタルジーによる美化はそうとうありますが、1944年に制作されたミュージカル映画では、市街電車は大都市の活気を象徴する交通機関としてとても肯定的に描かれています

一方、それよりあとにおこなわれた鉄道線路移転に際しては、都市計画学者や、建築家や、行政側の都市計画官が知恵を出し合って鉄道移設計画を立てました

そこでは、鉄道の存在を覆い隠すことにこれだけムダな時間と資金と労力を費やしていたのです。

専門家になればなるほど、自分が属する狭い分野の固定観念にとらわれて自由な発想ができなくなってしまうのではないでしょうか

自動車が都市の存在そのものを脅かす交通機関だという主張は、最近全面的に増補改訂した拙著、『クルマ社会・七つの大罪 増補改訂版 自動車が都市を滅ぼす』で詳述しております。ご興味をお持ちでしたら、ぜひお読みください。


編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年1月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。