Amazonカスタマーレビューの悩ましさ

呉座 勇一

昨今、一般書を発表した者にとって最も悩ましいのは、Amazonのカスタマーレビューだろう。ここでどう評価されるかが本の売り上げにも影響する。それでいてレビューは玉石混淆である。

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批判は真摯に受け入れるべきだろうが、的外れな罵倒・中傷も少なくない。単に汚い言葉で罵っているような類であれば読者も無視するから問題ないが、もっともらしい主張を展開しているものは厄介である。

一例を挙げよう。拙著『日本中世への招待』(朝日新書)で、『家久君上京日記』という史料を紹介した。織田信長・豊臣秀吉と同時代人で、島津家の当主だった島津義久の弟、家久の日記である。

家久は天正3年(1575)2月に領地の薩摩国串木野(現在の鹿児島県いちき串木野市)を発ち、京都・伊勢神宮・奈良などを回り、同年7月20日に串木野に戻った。江戸時代以前の、これほど大部な旅行記は珍しく、当時の交通・生活・風俗習慣・文化・社会・政治情勢などを知る上で欠かせない史料である。

これに対するAmazonのカスタマーレビューで、次のようなレビューがあった。一部引用しよう。

時代は違うが中世史に詳しいと思っている著者ではあるが、戦国史に至っての史学力はまったく感じられない。本書でも中世の旅行の項で島津家久上洛日記について、島津氏は連歌など中央文化を取り入れようとしていたと述べているが、島津家久自身、連歌は大の苦手であり興味もなく断っていたにも関わらず勧められて参加しているだけなのである。それを連歌会に参加した事績だけの物事だけしか見ていない著者の見解は正しくない。

こういう訳知り顔の自称「歴史研究家」は少なくない。確かに『家久君上京日記』を表面的に読むと、島津家久は連歌会を敬遠しているように映る。しかし、連歌会に誘われて「私は下手ですから」といったん断って、それでもしつこく誘われるから仕方なく参加する、という家久のふるまいは謙遜であり「作法」である。本当に家久が連歌嫌いなら、道中で和歌の名所を訪ね歩くはずがないではないか。

そうした中世史の知識がなかったとしても、現代の職場のカラオケ大会を思い浮かべれば想像がつきそうなものだ。自他共に認めるカラオケ自慢の部長さんでも、部下からマイクを差し出されたら、多少は躊躇するしぐさを見せるだろう。

もっとも、上掲のレビュアーは拙著を読んでいるからまだ良い。残念ながら、読まずにレビューを書いていると思しきものも少なくない。

昨年11月に拙著『頼朝と義時』(講談社現代新書)が上梓されたが、それから間もなく「呉座は室町時代の専門家なのに、専門外の鎌倉時代を扱った新書を書くべきでない」といった批判がネット上に多数アップされた。私が幕末維新史の本を書くというならまだしも、日本中世史研究者が日本中世史の新書を書くことが否定されるとは思ってもみなかった。

日本史学界において研究の個別分散化(たとえば「武田氏研究」といった細かい枠組み)が問題視されて久しいが、近年は「実証ブーム」の弊害として、新書でも個別分散化が進んでいるように感じられ、憂慮している。この点はゲンロンカフェ「歴史修正と実証主義」で詳しく論じたので、ご興味がおありの方はご覧いただきたい。

それでも読んだ上での批判なら仕方ないが、読まずに批判しているとしか思えないものがある。現在、拙著『頼朝と義時』のAmazonカスタマーレビューで最上位レビューは「元木先生の本を読めば済む論」というタイトルのものである。

レビュー本文は「呉座先生が専門外エリアについて、他の専門家の著作を読み込みつつ、自分の考えを披露する…といった、呉座贔屓がないと購入に疑問符がつく本になりました。「応仁の乱」のヒットで人生が、若干、変わった感じですね。いろいろありましたが、歴史と呉座先生が好きなら、楽しく読めます」というもの。単なる嫌味で、具体的な指摘が全くない。「元木先生」とは中世前期の研究者である元木泰雄氏のことだが、拙著の序盤で元木氏の学説を批判している(42・43p、53・54p、59・60p)。

呉座説は間違いで元木説が正しいと説得的に論じているなら分かるが、明らかにそうではない。拙著が元木説を批判していることを十分に把握せずにレビューを書いたとしか考えられない。

他にも「専門は室町」というタイトルのレビューがある。「「鎌倉殿の13人」の時代考証を降板したが、本は出すということにまず驚いたが、どんな本を書こうとそれは自由だから、いちゃもんを付ける必要はない。ただ、室町時代や一揆を研究対象とする人が、平安後期から鎌倉初期をターゲットとするこの時代を描く新書を書くというのは、どうなのだろう。著名な学者だからということで依頼したのなら出版社の見識が問われかねない」と、まずは通り一遍の専門外批判。

そして「肝心の内容についてだが、やはり本来の研究対象でないという点がネックになっているように見える」「ちょっと鎌倉時代研究の現場感を知っている人なら、それなりに重要と思われる局面でも、平凡な感想を述べるにとどまることが多い」と知った風な口を利くが、具体的に「重要と思われる局面」を例示しているわけではない。

唯一具体的な指摘は「北条政子の存在感の薄さ」だが、たとえば2019年に刊行された元木泰雄『源頼朝』(中公新書)や昨年12月に刊行された岩田慎平『北条義時』(中公新書)においても、政子の存在感は格別大きいものではない。これは元木氏や岩田氏の責任ではなく、頼朝や義時を主人公にした新書で政子に紙幅を割くのには限界があるからだ。新書を執筆する時に要する最大の技術が「何を省くか」にあることを知らない者が多すぎる。

こういうロクに読まずに嫌がらせのためだけに投稿されたレビューは何とかできないものだろうか。

ちなみに、最後に挙げたレビューの結びの言葉は「室町時代の研究者にもどってはどうか」。これは自称「歴史家」の井沢元彦氏に対して私が呼びかけた「推理小説家にもどってはどうか」のパロディ。レビュアーは井沢氏のファンなのかもしれない。最近は論争をやる精神的余裕がないが、回復してきたら「井沢史観」批判を再開するとしようか。