新国立劇場「さまよえるオランダ人」

小田島 久恵

新国立劇場『さまよえるオランダ人』の初日(1月26日)を鑑賞。オミクロン株の感染拡大でクラシック、オペラ、バレエ、演劇の公演が次々と中止になる中、初台の初日は無事開幕した。

新国立劇場『さまよえるオランダ人』より 撮影:寺司正彦

メインの役どころの歌手は3人とも来日が叶わず、オランダ人を歌う予定だったエギルス・シリンスの代役が河野鉄平さん、ゼンタ役のマルティーナ・ヴェルシェンバッハが田崎尚美さん、エリック役のラディスラフ・エルグルが城宏憲さんに変更となった。指揮者もジェームズ・コンロンからガエタノ・デスピノーサに変わり、日本滞在が長くなったデスピノーサが、ピットに入った東京交響楽団と共演した。

ワーグナーの初期作品『さまよえるオランダ人』は、最近では2019年の東京・春・音楽祭で、当たり役のバス歌手ブリン・ターフェルが主役を歌うのを聴いていた(演奏会形式)。日本人が歌うオランダ人は、2016年に神奈川で見た青山貴さんが記憶に残る。アメリカでの活動が長かった河野鉄平さんは、新国ではブリテン『夏の夜の夢』(2020年)のパック役で強い印象を残したが、今回のワーグナーの主役は大抜擢だった。

オランダ人は登場の瞬間から、華があった。23年間米国で活動していたことと関係があるのか、河野さんがまとっている演技者としてのオーラは、日本人としては異質に感じられる。この役の音域はかなり低く、貴重なバスの声の持ち主である河野さんも、1幕は慎重に歌われていた。

オランダ人が自分の不幸な身の上を語る長いモノローグでは、歌い終わった後に拍手したかったが、ワーグナーでは劇中の拍手は禁物。ダーラント役の妻屋秀和さんが手堅く合いの手を務め、1幕はバス同士の渋いやりとりに聴き入った。舵手役の鈴木准さんは、初日は抑えめの声量だったが、この状況での準備がどれだけ大変だったかを思った。舵手が歌う場面は冒頭でも注目を浴びるが、二日目以降調子を上げていくと思われた。

一幕55分の後は休憩が入り、二幕と三幕か続けて上演されたが(約90分)、物語的に説明的な要素が多い前半を終えると、後半はあっという間に終わってしまった。ダーラントの娘で、オランダ人を救済する乙女ゼンタが登場すると、一幕までの暗い雰囲気が一転して明るくなる。

田崎尚美さんは、ワーグナーが求める「救済の乙女」の理想のような歌手で、昨年の二期会『タンホイザー』のエリーザベトも太陽のような女神ぶりだったが、ゼンタも登場の一瞬で成功を予感させた。田崎さんのなんともいえない可愛さが、オランダ人の伝説を信じる無垢な若い女性にぴったりだし、そうした無邪気さと同時に、崇高で抽象的な「至高の女性」も演じられていた。声楽的なクオリティが高く、声量も豊か。ダーラントがオランダ人と娘を引き合わせる場面では、二人の男女は見つめ合ったまま何も語らないのだが、その沈黙が大変長いことに今まで気づかなかった。作曲家が書いた演劇的な余白が、うまく生きていた。

この時期に上演されるすべてのオペラと同様、『さまよえるオランダ人』も所謂「コロナ演出」で、歌手と歌手がディスタンスをキープして歌う。もはやそのことが、演劇的に不足と感じることもなくなった。

新国立劇場『さまよえるオランダ人』より 撮影:寺司正彦

舞台の東西に分かれて歌っていても、愛の表現は可能だし、そんなことでオペラの迫真性が損なわれたら人類の敗北だとも思う。想像力はなんのためにあるか。歌手も合唱も演出家も、全員がもどかしく思っているに違いないが、そこで諦めたりしない。コロナ禍はあと何年続くか分からないが、歴史の中で奇異な時代となった今、芸術がどのように息をしていたかが重要なのだ。歌手たちはコロナ時代のオペラの生き証人となる。

ゼンタを愛するエリック役の城宏憲さんの熱演が目覚ましかった。カルメンのドン・ホセを思わせるテノールの演技で、ゼンタを引き留めようと死を覚悟するほどの激しい歌を一秒もパワーを緩めず歌う。

一歩引いてみると、エリックは三角関係の邪魔者で、宿命の愛で結ばれた二人の外にいるみじめな男なのだが、それは物語を俯瞰で見たときのことで、「エリック本人はどうなのか」と考えると、死ぬほど切ない。城さんがオペラをどのように考えているのか、役を演じるということはどういうことなのか、教えてもらった。

舞台で自分以外の人間になるということは、現実で隠れている自分のある側面を引き出したり、反転させたりする作業で、そこには大きな痛みもあるし喜びもある。コロナ中に撮影されたリドリー・スコット監督の『ハウス・オブ・グッチ』で、アル・パチーノをはじめとする役者たちが異様といっていいほどの濃い演技をしていたのを見たばかりで、映画の世界でも前代未聞のことが起こっているように感じたが、オペラやストレートプレイでも、役者たちは極限まで「役になりきって」いる。大袈裟かも知れないが、演じる人々の間で同時多発的な何かが発動しているように思われてならないのだ。

ラスト近くで、ゼンタが手に入らないと絶望したオランダ人が去ろうとする歌唱で、河野さんは演劇的なものをぎりぎりまで優先させ、声楽的にはリスクを取っていた。凄まじいバランスでその冒険は成功していたが、「歌手はどうしてそこまで自分を信じられるのか」と果てしない思いにとらわれた。自分の役を愛しぬいている。「オランダ人」のスト―リーは荒唐無稽といえばそうなのだが、そこに三人の歌手たちが吹き込んだ熱が凄くて、吹っ飛ばされた。三人それぞれの「オペラ論」を受け取った上演だった。

デスピノーサと東響が奏でる音楽は、イタリアオペラのような輪郭で、ところどころドニゼッティやロッシーニや、ヴェルディそっくりに聴こえる。ワーグナーとヴェルディは同い年だが、初期作品にはイタリアオペラの影響が残っていて、デスピノーサは徹底してそこを強調する。指揮者の理念がはっきりしているのがたのもしかった。新国立劇場合唱団は女声、男声とも素晴らしく、一人一人の輝かしい声が劇場に響き渡っていた。

2/2、2/6にも公演が行われる。

新国立劇場 さまよえるオランダ人

スタッフ
【指 揮】ガエタノ・デスピノーサ
【演 出】マティアス・フォン・シュテークマン
【美 術】堀尾幸男
【衣 裳】ひびのこづえ
【照 明】磯野 睦
【再演演出】澤田康子
【舞台監督】村田健輔

キャスト
【ダーラント】妻屋秀和
【ゼンタ】田崎尚美
【エリック】城 宏憲
【マリー】山下牧子
【舵手】鈴木 准
【オランダ人】河野鉄平

【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

公演日程
2022年 1月26日(水)19:00
2022年 1月29日(土)14:00
2022年 2月2日(水)14:00
2022年 2月6日(日)14:00

公演時間
約2時間50分(第Ⅰ幕55分 休憩25分 第Ⅱ・Ⅲ幕90分)