「水素」なら何にでも飛びつく日本の学術研究は大丈夫なのか?

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脱炭素へ『ご当地水素』、探る地産地消・・強酸性温泉や糞尿から生成」との記事が出た。やれやれ、またもやため息の出るような報道である。

1. 廃アルミと強酸性温泉水の反応

これで水素が生成するのは当たり前である。中学・高校の化学で亜鉛(Zn)や何かと塩酸・希硫酸などを反応させて水素を発生させる実験をやると思うが、あれと原理的に同じだから。化学的に言えば、水素(H2)よりも「イオン化傾向」の大きい金属(リチウムLi〜鉛Pb)は塩酸や希硫酸と反応し、水素を発生しながら溶けて塩化物や硫酸塩の水溶液ができる。

イオン化傾向は、金属元素の陽イオンへのなりやすさを表す指標で、受験化学では「リッチに貸そうかな まああてにすな ひどすぎる借金」とかの語呂合わせで覚えるが、知っているとなかなか便利である。

リチウムが最もイオン化しやすいので、金属を使うならリチウムイオン電池が最も優れていることが分かるし、水素(H2)よりイオン化傾向が高いと電極に使う金属が溶けてしまうので、水素を使う燃料電池の電極にはイオン化列で銅以下の金属しか使えず、幾つかの理由で白金が選ばれていることも理解できる。

故に筆者の見解では、こんな反応が大学の研究課題になるというのが不可解である。「中高生の夏休み自由研究」レベルの話なのでは? とてもプロの研究者が扱う課題とは思えない。

それに、金属のアルミ二ウムは造るまでに膨大な電力を消費している(だから電力費の高い日本ではアルミ精錬は行われていない)。これを酸に溶かして溶液にしてしまっては、元も子もない。その後はどうするつもり?廃アルミを何とかして(なるべく環境負荷の小さい方法で)使える金属アルミに再生することこそ、プロの研究課題だろうに。

「水素」だと何でも飛びつくマスコミ記者もどうかしている。「それ、高校の化学実験でやったのと同じですよね?」くらい、聞けなかったのか?学校で何を勉強してきたの?アルミの事情も掘り下げてみなかったのか?水素生成後の後始末のことも。全く、何も考えていないんだね?

2. 乳牛の糞尿からの水素製造

これも以前から行われている試みで、筆者から見ると全く無意味である。なぜなら、下水汚泥からの水素生成も同じだが、これらは全部「メタン発酵」という微生物反応で有機物からメタン(CH4)を作り、それを改質して水素を製造しているからだ。つまり、天然ガス(中のメタン)の改質と同じである。その際、原料を燃やすのと同量のCO2が出てしまう。「脱炭素」にさえ役立たない。

メタンの改質にはかなりのエネルギーを使うから、改質などせずにメタンを精製してそのまま燃料に使うのが、はるかに効率的で安く済む。改質して水素を作り、燃料電池で電力生産する際にまたエネルギーを損している。水素を扱うには、安全性への配慮から設備費も高くつく。どんなに損をしても「水素」なら許されると思っているのだろうか?

損と言えば、バイオガスには不純物が多いことも不利である。バイオガスの組成はメタンが大体60%、残りはCO2と水蒸気、それに多いと1%程度の硫化水素(H2S)が混じる。この硫化水素は燃料電池用白金触媒の「天敵」で、徹底的に除去しないと触媒がすぐダメになる。通常の燃焼用なら、くず鉄を詰めたカラムを通す程度で使えるのだが、燃料電池用には高純度水素が要る。

また、量的な問題もある。牛1頭で車1台走らせるらしいが、日本の乳用牛は135.8万頭、肉用牛は260.5万頭(2021.11.4現在の畜産統計値)合計約396万頭しかいない。一方、自動車保有台数は、乗用車だけで約6212万台、貨物用は1448万台、合計約7660万台もある(2021.10末現在)。

排出される牛糞を全部回収できたとしても、約5%の車しか動かせない。もちろん、飼育牛の糞尿を全量回収するのは全く不可能だし、回収分を全量メタン発酵に回すのも事実上困難だ(畜糞コンポスト=堆肥への需要も多いから)。「牛糞から水素」で本当に走る車が、一体何台あるのか?

もう一つ「カーボンニュートラル(CN)」への誤解もある。バイオガスはCNだとの思い込みである。牛糞中の有機物が全量、自然に生えた草由来ならば、牛糞から製造するバイオガスのCN性は高い。

しかし日本の牛の飼料は大半が輸入穀物(トウモロコシなど)で、栽培作物である。作物の栽培(農業)には、肥料・農薬・農業機械・収穫物の加工・輸送などに化石燃料が使われており、決してCNではない。言い換えると、牛糞とは現在の日本では化石燃料の化身なのである(以前書いた「カーボンニュートラルという呪文」参照)。

ついでに、この頃マスコミCMや各種学会シンポジウム等の枕詞に「2050年カーボンニュートラル」と言う文言がよく出てくるが、本気なのか?と思わざるを得ない。そもそも、この言葉をどのように理解しているのだろうか?

もし、人間社会からのCO2排出量を完全にゼロにすると言う意味ならば、これはまず絶対に実現不可能である。我々自身、絶えずCO2を排出しているし(どうやって回収するの?)、あと30年足らずで化石燃料を全く使わずに成り立つ世界が実現するなど、想像しがたい。

そこで「実質」排出ゼロと言う理屈と言うか言い分が出てくるが、これは本来的に「実質」ゼロではない。排出権取引やCCS(CO2固定・貯留)などで引き算して「計算上 or 見かけ上」排出ゼロとする考え方である。

これが「CN」だって? ウソだよね。こんなのは一種の「詐欺」である。出ている物を出ていないと言っているに等しいから。単なるゴマカシ。こんなことに税金を使わないでもらいたい。

話を冒頭の新聞記事に戻すが、上記のような研究を進めているのが東北大・北大、コメンターが東大と、国内では一流と目されている旧帝大系大学ばかりである。先の原稿で取り上げた「水素シンポジウム」へも九大・東大の研究者が出ていた。

「政府は、脱炭素社会を担うエネルギーとして、水素を安価で大量に調達する仕組みを模索する。海外から運ぶ技術の試験を進める一方、国内で安定的に生産する体制の構築も目指す。」との流れに乗っていれば、御身安泰と考えているのだろうか? 研究者の姿勢として、それで何の問題も感じないのだろうか?「中高生の夏休み自由研究」程度の研究課題でも?

以前にも書いたが、サイエンス(科学)研究では「役に立つか立たないか」は原則として問題とする必要がない(生命科学の研究では、倫理的に問題があるケースも出てくる可能性はある)。「真理の探求」が究極的目的なので、結果的に役に立つ立たないはあるにせよ、研究自体の価値には本来関係がない(だから筆者は、最近の科学系ノーベル賞が現実世界への貢献度で選抜される傾向を好ましいと思っていない。学術的な、科学上の価値だけで決めて欲しい)。

一方、テクノロジー(技術・工学)研究は違う。軍事から福祉まで、テクノロジーには必ず「目的」があり、人間社会の中で使われる。だから、その研究目的が正当なものなのか、またその研究が社会にとって有益か無益か(場合によっては有害か?)は、常に検証の対象となっていなければならないし、研究者自身が常に自問自答すべき問題のはずである。

少なくとも筆者は現役時代、研究テーマを考える際にそうしてきた(それが孤立を招いたと言う面は否定しがたいが、他に選択肢はなかった)。学会ボスにぶら下がり、国策プロジェクトに沿った研究課題ならば研究費も得やすいしマスコミにも載りやすい、と言う理由だけで選んでいるとすれば、日本の学術の未来は暗いと思う。

こうした現象の背景には、以前にも指摘した、日本の大学・研究機関における構造的な問題がある。削られ続ける自由な研究費、絶え間なく求められる「研究業績(論文・外部資金獲得額・マスコミへの露出度その他)」、膨大な雑務、そして「自由にモノが言いにくい雰囲気」である。

実際問題として、地球温暖化や脱炭素に対する懐疑的な意見は公的に表明しにくい雰囲気が、多くの学会や大学で観察される(現役研究者からそう聞いているし、筆者が現役時代にも実際に経験している)。最近のネットメディアでも、池田信夫氏や杉山大志氏の言論や動画が削除されたり、実質的な「言論統制」としか言いようがない状況が起きている。現役研究者にとっては、殊に恐怖だろう。

ハッキリ言うが、このままでは日本の学術は衰退して行くしかない。予算が削られ、雑務に追われ、自由に物も言えず、自身の研究の意味を考える余裕さえ無くしている状況で、どうやって有意義な学術研究を進めることができるだろうか? 日本は「技術立国」のはずではなかったのか?

その「技術」を伸ばすためには、今の状況を180度変えるしかないだろう。すなわち、研究者により多くの自由に使える予算と時間を与え、業績評価でがんじがらめにせず、自由闊達に議論できる雰囲気(環境)を整備することである。それで十分かどうかは不明だが、少なくとも必要ではある。