日本に浸透するロシアの世論工作

潮 匡人

先日出演した保守系のテレビ番組でウクライナ情勢が話題となった。そこで他の出演者らが口々にこう唱えた。

NATOは1インチも東方拡大しないと約束したのに、西側は次々とNATO拡大を続けてきた。ウクライナ情勢を悪化させたのはロシアではなく西側である。

そこで私が「それはロシア側の認識であり、プーチン大統領の主張だ。少なくとも公式な外交文書に、そうした記録はない」と指摘したところ、集中砲火を浴び、ほぼ孤立無縁となった。

Mlenny/iStock

やむなく番組の最後に「かりに今後、ウクライナ問題で西側が譲歩し、NATO不拡大を文書で国際合意するような事態になれば、わが国周辺の国際安全保障環境に与える悪影響は計り知れない」と注意換気するのが精一杯だった。

その数日後、やはりウクライナ情勢をめぐるBSフジの報道番組「プライムニュース」を視聴したところ、複数の著名な出演者が上記と同じロシア側の主張を代弁していた。そこで私と同じような指摘を口にした出演者に対し、「現地の情勢を理解していない」云々と上から目線で全否定。一気に、番組の流れが親ロシアに傾いていったので、テレビを消した(ので番組後半の議論がどう展開したかはしらない)。

昨年12月23日の記者会見で、プーチン大統領は「ウクライナを攻撃しないと保証できるか」と質問した西側の記者に対し、「あなた方(西側)は90年代に、NATOを東方には1インチも拡大しないと言ったが、われわれは騙された」と反発をあらわにした。

実際、ロシアはいまも、NATOの不拡大を文書で約束するよう求めている。加えて東欧、バルト諸国の軍備を1997年以前に戻すことも要求している。

だが、そもそもNATO東方不拡大の約束はあったのか。

たとえば、「フォーリン・アフェアーズ」2014年12月号に掲載されたジョシュア・R・I・シフリンソン准教授(テキサスA&M大学)の論文「欧米はロシアへの約束を破ったのか――NATO東方不拡大の約束は存在した」は、サブタイトルが明示するとおり、約束は存在したとみる。たとえ口約束でも、「国際政治におけるインフォーマルなコミットメントに効力があることは研究者も政策担当者も長く認めてきたし、特に冷戦期はそうだった」というのが、その論拠の一つである。

他方、先月末に「日本国際フォーラム」のサイト上で公開された袴田茂樹上席研究員による「NATO不拡大の約束はなかった――プーチンの神話について」は、タイトルが明示するとおり、約束はなかったとみる。

本文中で「ロシア側が前提としていることは、全くの間違いまたは意図的なフェイク情報だ」とも断じる。

さらに、2014年10月16日のゴルバチョフによる、「当時はNATO拡大の問題そのものが提起されなかった。それは私が責任をもって確言できる」との証言も援用している(「Russia Beyond the Headlines」)。

先月下旬、「ニュースソクラ」に掲載された小田健(元日経新聞モスクワ支局長)著「独統一の際、NATO東方不拡大の約束はあったのか」は折衷的な見方を示す。

論議を一言でまとめるなら、ロシアの言い分に根も葉もないわけではないが、正式な国際条約に書かれていないからその主張は迫力に欠けるということになろうか。

直近では、2月6日付「朝日新聞」朝刊が以下の興味深い経緯を指摘した。

「ウクライナは独立した主権国だ。自らの平和と安全保障の道は自ら決める」。2002年5月28日、記者会見でウクライナがNATOに加盟する可能性を問われたプーチン氏の答えは、今と正反対の見解だった

はたして真実はいかに・・・

いずれにせよ、いまもロシア軍が13万もの兵力を展開させ、武力による露骨な威嚇を続けている事実に変わりはない。もし「西側は次々とNATO拡大を続けてきた」と言うなら、ロシアは次々と支配地域を拡大させてきた。それも、軍事力の行使をためらうことなく(前回拙稿参照)。

この期に及んでなお、日本の保守系メディアで「保守派」が平然とロシアの主張を声高に唱えている事実が持つ意味は軽くない。もしかすると、真実を解く鍵は、こんなところにあるのかもしれない。