ウクライナ危機でにわかに旧ソ連の15共和国についての関心が高まっているが、新著『世界史が面白くなる首都誕生の謎』(知恵の森文庫)からそのあたりを短縮して紹介しておく。
ロシア中心部はモンゴル支配時代も、地元勢力を通しての間接支配だったが、バルト海の沿岸ではドイツ騎士団が植民しロシアへの進出をねらっていたので、アレクサンドル・ネフスキーが、モンゴルの支援を受けて撃退し、その功績で、子孫はモスクワ大公になった。
モスクワは、ボルガ川支流の河港都市なので、アストラハンからも便利で、経済的にも軍事的にも要地だった。そして、コンスタンティノープル陥落から間もない1480年に、イワン3世が東ローマ帝国最後の皇帝の姪を妃に迎えて、「ツァーリにして専制君主」と称し、キプチャク汗国から独立を宣言した。
このあと、ピョートル大帝がサンクトペテルブルクに遷都するが、遷都後もモスクワは副都として繁栄を続け、歴代ツァーの戴冠式はクレムリンのウスペンスキー聖堂で行われた。
モスクワの都市構造は、権力の中心であるクレムリンから放射線状に伸びる幹線道路と環状線からなっている。大環状線は半径20キロほどである。クレムリンの東正面には赤の広場があり、広場周辺にはグム百貨店や聖ワシリイ大聖堂、レーニン廟がある。ロシア正教の中心である救世主ハリストス大聖堂はクレムリンの南西のモスクワ川沿いにあり、ソ連によって破壊されたが2000年に復興した。
モスクワ川、ボルガ川などを伝い白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海、黒海と行き来できる。防空壕を兼ねた地下鉄は地下宮殿と言われる豪華さだ。ロシア革命ののち、国防上の観点からモスクワに遷都された。それ以前に、ロシア風にペトログラードと改称されていたが、さらにレニングラードと改称。第二次世界大戦では壮烈な包囲戦を耐え抜いたが、そのときに作曲され初演されたのが、ショスタコービッチの壮大な「レニングラード交響曲」だ。
ロシアという名前はバイキングのことである。建国は北部のノヴドゴロだが、ドニエプル川水系を使いバルト海から黒海を結ぶ交易路が栄えていた。ルーシたちは、これを南下し、キエフを本拠にした。ここで、ウラディーミルがキリスト教に改宗して、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃にしてキエフ大公国となった(988年)。
キエフ大公国は、分割相続と、十字軍遠征で地中海貿易が活発化したことで衰退したのち、モンゴルに蹂躙され、キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)がカスピ海に流れ込むボルガ川下流のアストラハン付近に建てられた(1240年)。
モンゴルからの解放をポーランドの援助で実現したが、のちにロシアに併合された。光した歴史から、ロシアに対して本家意識があり、ポーランドには親近感がある。首都はキエフ。ドニエプル川に面した美しい歴史都市で聖ソフィア大聖堂など。
カザフスタンの首都は、クズロルダだったが、1927年に天山山脈を望む美しいアルマアタ(カザフ語ではアルマトイ)に遷都。1997年に黒川紀章が設計した北部のヌルスルタン(アスタナを改称、その前はアクモラ)に移った。前衛建築の展覧会として知る人ぞ知る存在。
トルクメニスタンのアシガバートも初代大統領ニヤゾフが白い大理石を惜しみなくつぎ込んで建設した首都。永世中立を記念したニュートラリティ・アーチの頂上には金メッキの像が24時間回転し続ける。
バルト三国のうち、エストニアはフィンランド人と同系で、首都タリンはデンマーク人の都市という意味。13世紀の大聖堂などデンマークの風景に似ている。
リトアニアでは、1920年にビリニュスがポーランドに併合されたので、カウナスが正式に首都となった。杉原千畝によるユダヤ人への「命のビザ」の逸話はこのころだが戦後、ビリニュスが首都になった。
カフカス地方の三国のうち、ジョージア(ロシア語でグルジア。現地語ではサカルトベロ)のトビリシは、4世紀のナリカラ要塞の城下町的な坂の町である。
アゼルバイジャンのバクーはカスピ海に面しており、古代から石油や天然ガスが噴出しており、拝火教といわれるゾロアスター教が盛んだった。近代的な石油産業はここで確立された。炎の形をしたフレームタワーなど前衛建築が並ぶ。
世界最古のキリスト教国だったアルメニア(現地ではハヤスタン)の自慢はノアの箱舟が漂着したアラファト山。首都エレバンから眺められるが山そのものはトルコ領だ。