悪い障がい者を許容できる包容力ある社会に --- 松橋 倫久

ある統合失調症の方と話していて、「僕は統合失調症があるから働くのは無理だ」と言ったら、「えっ何で? 自分は働いているけど」と返されてしまった。統合失調症は多様な症状や状態が有り、個人個人の差が大きい障がいだ。僕も含めて、誰しも自分を中心に考える。僕は働いていないから、「統合失調症=働けない」という認識になるし、僕と話していた人は働いているから「統合失調症=働ける」となる。

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統合失調症ははたして働ける障がいなのか、働けない障がいなのか? それはその人によるとしか言い様がない。一般的な基準から言って、働いている障がい者は「良い障がい者」、働いておらず障害年金や生活保護を受給している障がい者は「悪い障がい者」と仕分けられがちである。働くことは尊い、という思想からこういった結論が導き出されてしまう。働きたくなくても生活のために仕方なく働いている人も多い。そんな中で障害年金や生活保護を受給している障がい者は狡いと感じてしまうだろうか?

社会に負担をかけない障がい者が「良い障がい者」で、社会に負担をかける障がい者は「悪い障がい者」であるとなると、重い障害を持った人たちは皆「悪い障がい者」となってしまう。この思想が行き着くところが、津久井やまゆり園の事件だ。犯人は「悪い障がい者」をやっつけたつもりだ。優生思想的な傾向は、誰しも少しくらいは持っていると思う。僕だってそうだ。僕は社会に助けられる側だけれど、それでも一所懸命学位や資格を取得するのは、どこか「優れた」障がい者でありたいという気持ちが残っているのだろう。

仏教の考え方では、人の助けを借りなくては生きていけない重度の障がい者にも、仕事があるという。それは、お世話してくれる人に、お世話したいと思わせるように、気持ちよくお世話してもらえるように環境を整えることだという。そうなると僕のように自分の主張を声高に叫ぶ障がい者は、「悪い障がい者」である。保険の制度に乗っているので、障害年金の受給は当然等とうそぶいていては、いけないよと言うのが仏教の教え。

だが僕はちょっと違うのではないかと思う。確かにお世話してくれる人に、気持ちよく動いてもらうというのは大切なことではある。そうできれば素敵だとも思う。

「こんな夜更けにバナナかよ」という映画があったが、「悪い障がい者」のわがままは健常者にとっては呆れてしまうこともあるだろう。そうであったとしても、障がい者が生きたいように生きられる社会が素敵だと思う。多くの人は「何言ってんだ!」とお叱りになるかもしれない。だけど、健常者と一緒で、障がい者にだって善人と悪人がいる。障がい者だから、清く正しく美しく生きなければならないというのは無理な押しつけだ。どうか障がい者に感動ポルノを求めるのはやめにして欲しい。ダメな人がダメなまま生きられる、そういう社会の方が健常者の皆さんも生きやすいのではないか?

働くことが尊いという考え方は、これまでは社会を維持するために必要な思想だったのかもしれない。しかし、近年の日本において、非正規雇用率が高まっていることは、もはや働きたい人であったとしても職に就くのが容易ではなくなっているということであると言える。一概に非正規雇用が悪者ではなく、個個の事情によって正規・非正規を選択できるのが良い。そして、リスクの高い非正規がよりよく処遇されることも必要である。その上で、社会が働きたい人を吸収できるだけの雇用が用意できないのなら、働かなくても生活していけるような制度を今後構築していかなくてはならないのではないか?

まだ現実に適応するのが難しいかもしれないが、ベーシックインカムのような考え方も出てきており、ここらで「働く=尊い」という哲学を放棄しても良いのではないだろうか? 健常者の皆さんだって、好きで働いている人たちばかりではないだろう?

もうそろそろ単純に働きたい人が働いて、働きたくない人は働かない、という社会になっても良いのではないか? そのための理論としてベーシックインカムに期待しているが、まだ現実に適用できるレベルではないかもしれず、今後の研究の進展を期待したい。

松橋 倫久
元青森県庁職員
1978年青森県生まれ。東北大学経済学部を経て、青森県庁奉職。在職中、弘前大学大学院を修了。統合失調症の悪化により、2016年青森県庁辞職。現在は療養しながら、文芸の活動をしている。