名古屋フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団と、関東圏以外のオーケストラのサントリーホールでの名演が続いたが、2月14日に行われた大阪フィルハーモニー交響楽団の東京定期演奏会は、そのハイライト的な名演だった。
指揮は2018年から音楽監督を務めている尾高忠明さん。コンサートマスターは崔文洙さん。曲はブルックナー『交響曲第5番 変ロ長調(ノヴァーク版)』(休憩なし)。
ブルックナーの5番は読響と下野竜也さんで先月聴いたばかりだったが、全く別の曲のような印象を受けた。読響&下野さんも大変な名演であったが、前半のメシアンの『われらの死者の復活を待ち望む』との組み合わせもあってか、怖気づいてしまうほど遠い音楽に感じられた。
これらの音楽が「初演」を迎えたヨーロッパという土壌と、日本は何とかけ離れているのかと恐れをなし、極東の国で「クラシックの評論をやっているつもり」の自分という立場が虚しくなる心地がした。余りに高い、神と人との対話であり、それを受け入れる下地としての「西洋」の異質さに打ちひしがれた。
尾高さんと大フィルのブル5は、1楽章からハーモニー美しさと透明感に驚かされた。木管の透明度が高く優美のきわみで、打楽器は素晴らしい立体感と抑揚があり、弦の精妙さにも恍惚とさせられるものがあった。オーケストラのコントラバスとはこういうものだ…という深い響きが感じられ、一瞬一瞬の合奏の密度に驚かされた。
2楽章のアダージョは、「これは本当にブルックナーが一人で書いたのだろうか」と思わされた。美しすぎて、人工物とは思えない。自然の美しさに似ている。きっと神の助けを借りて、自我を受け渡し、霊感の降りてくるがままに書いたのだと考えた。天使の気配がする。これの次にあれがつながる、その成り行きのすべてが奇跡的で、作為が感じられない。
ヴァイオリンのささやくような節回し、朝露のようなピツィカート、雄大な朝焼けのようなサウンドスケープが無限に拡がり、心が熱くなった。ブルックナー派とマーラー派、という区別があるが、ブルックナーもマーラーも、チャイコフスキーもワーグナーもひょっとしたら同じものに憧れ、苦しめられていたのではないだろうか。
「美」というものの仮借なさ、多くを与え、消耗させる芸術の深淵に、あらゆる境界が消えていく感覚があった。それにしても何という素晴らしいオーケストラなのか。ブルックナーをこんなふうにリアルに聴いたことはなかった。
3楽章のスケルツォは、バレエ音楽を想像した。たくさんの舞曲が繋がっているような印象で、コンサートマスターが美しくて若々しいバレリーナのつま先のような、可憐な音を奏でていた箇所があった。ホール前方で聴いていると、大きな楽隊な中に、小さな楽隊が招かれて、ひととき余興を見せた後に去っていくような場面が聴きとれるのだ。
再び音楽は厳しくなり、管楽器がコンマ何秒か先走って咆哮を始めると、凄い演奏効果が発揮された。指揮者は黒豹か虎のような殺気を放ち、オーケストラ全体が戦闘態勢でついていっているのが分かる。
自分がかつてこの曲に感じた高い壁のような「境界」は、大フィルと尾高さんの音楽には感じなかった。尾高さん自身が、西洋と東洋の壁を何枚も破ってきたからなのかも知れない。ブルックナーの内側にあったもの、音楽でしか表せなかった情熱、真実の信仰、美意識が、自分自身の感覚のように思われた。クラシック音楽は聴き手を尊大にするものなのかも知れないが、ブルックナーを「隣人」として感じられ、彼はこの美しい曲を泣きながら書いたのではないかと想像したのだ。
フィナーレ楽章は驚くことばかりだった。尾高さんはある箇所に差し掛かると、全く動かなくなった。オケに闘わせ、自動的に音楽が溢れ出す。尋常ではない響きが生まれ、なんという渦巻きに自分は包まれているのだろうかと驚いた。誤解を恐れずに言うなら、日本人の指揮者こそが世界最高の指揮者だ。
政治やさまざまなことに問題があっても、日本人は芸術に関することには、つねに自己成長を課し、伝統芸能にも「道」を作ってきた。排他的な意味ではない。尾高さんのリーダーシップには、武士道が感じられた。クラシックは西洋のもので、日本人がオペラやバレエをやるのは無駄だと言われてきた時代を、自分の世代は知っている。尾高さんのようなサラブレッドでも、遠い過去にはそういう「溝」を経験してきたのかも知れない。武士道は闘い方の美学で、休息をとっている敵の戦士を背中から刺すようなことはしない。オーケストラの「指揮」も高貴な闘いだと思った。
それまでのさまざまな美しいことが壮麗に爆発する4楽章では、聴き手の集中力も凄かった。大フィルの精神性の高さ、ブルックナーの切ない愛、尾高さんの「道」が胸に迫り、自分の誕生日が2日後だったこともあって、「誕生日まで生きられるか。これが地上での最後の至福ではないか」と、素っ頓狂なことを考えてしまった。一度死んだ人間を蘇生させるようなパワーを受け取った。
カーテンコールでは指揮者とコンサートマスターが肩を組んで可愛く登場した。チェさんも尾高さんも幸せそうな表情。「皆さんありがとう、もう喝采はいいですよ」というときの、尾高さんの「おやすみなさい」のポーズは、何度見ても可愛いが、アントニオ・パッパーノも毎回あれをやるのだ。英国式なのだろうか。尾高さんと大フィルのコンサートにはまた行きたい。伝説の一夜だった。