日本人が外地に創った首都(京城・台北・新京・大連)

日本の県庁所在地のほとんどは、主として豊臣政権とその残党である江戸大名によって建設された城下町だ。そこで、日本人は新都市建設といった仕事は苦手だと思っている人が多い。

しかし、たとえば、ナイジェリアの首都アブジャは丹下健三、カザフスタンのヌルスルタンは黒川紀章がプランを創った。また、戦前の日本は、植民地にした韓国のソウルやG台湾の台北を見違えるような近代都市にしたし、大連はロシアがつくったマスタープランはあったが建設は日本時代だし、満州国の新京はまったくの新都市だった。

そのあたりについても、「世界史が面白くなる首都誕生の謎」 (知恵の森文庫)で書いたので、それを少し書き換えて紹介したい。

台北では、1907年に台湾総督府新庁舎について、日本初の正式な設計コンペが行われた。東京駅を設計した辰野金吾の弟子である長野宇平治の基本設計案が甲賞なしの乙賞に選ばれ、辰野らが中央塔の高さを60メートルに伸ばすなど修正して着工され、1919年に完成した。現在でも「中華民国総統府」として現役である。

大連はロシアが租借した時代にパリのような都市プランが立てられたが、建設はほとんど日本が租借してからである。

ヤマトホテル(大連賓館)、満鉄本社(大連鉄路分局)、市役所(中国工商銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、大連駅、満鉄大連医院(大連鉄路医院)、大連第二不当船客待合所、大連埠頭事務所などが残っている。大連駅は東京の上野駅にそっくりだ。

1937年当時の大連駅
出典:Wikipedia

新京は満州国の首都として建設された。満鉄の要地であった長春の南西郊外にワシントンのようなイメージと規模の新都市が建設された。構想では新宮殿の前に順天大街が通り、その左右に官庁街が建設される予定だったが、新宮殿は途中で工事が中止された。

皇帝溥儀は、満鉄付属地といわれた旧市街の北東にあった仮宮殿に最後までいた。現在は皇宮博物院になっている。

興亜様式といって、日本の帝冠様式と同じように鉄筋コンクリートの建物に、瓦屋根が乗っている。

北京を近代都市にするべく努力したのも日本占領時代で、城壁を取り払うなどが行われた。のちに京都市長となった今川正彦もその中心的人物の一人であった。

朝鮮においては、京城(ソウル)を見違えるような近代都市に変貌させた。景福宮の南の部分に巨大な総督府が建設されたが(1916年着工、26年完成)、景福宮は主要部分が保存された(このころ景福宮は王宮として使われていなかった)。

朝鮮総督府庁舎
出典:Wikipedia

景福宮では1929年に大博覧会が開き、朝鮮の人々が故宮を親しく観覧する機会を総督府はわざわざ設けているくらいだ。内地でも、各地の城も完全保存されたものはなく、戦災までもっとも保存状態が良かったのが名古屋城と姫路城であり、京都御所や江戸城でも多くの建物が撤去されて主要部分だけが残されているのだから、歴史的景観を大事にしなかったというのは嘘だ。

そもそも、李氏朝鮮が顧みなかった朝鮮文化の独自性に着目し、それを保護し、また、発展させたり、文化財の修復を進めたのは朝鮮総督府である。

総督府は戦後になっても中央政庁として利用されていたが、1986年には国立中央博物館とされ、1996年には解体されたが馬鹿げたことだ。メーンストリートは、総督府前にシャンゼリゼのような大通りを建設し、徳寿宮前の広場に京城府庁があった。少し前までソウル市役所で、新庁舎建設に伴い取り壊しとか、外観だけ保存とか論争があったが、維持されることになった。