プーチン氏と「ルッソフォビア」

昔、「スパイたちが愛するウィーン」(2010年7月14日)というコラムで書いたが、音楽の都ウィーンには冷静時代、東西から多数の情報機関のエージェント、スパイたちが暗躍していた。現代も数こそ減ったが、ウィーンの地理的位置が変わらないこともあって、スパイたちは今もウィーンを愛している。

ベラルーシのルカシェンコ大統領と会談するプーチン大統領(2022年2月18日、モスクワで、クレムリン公式サイトから)

ウィーンの国連機関にはいろいろな名目でスパイたちが入っている。例えば、ウィーンの国際原子力機関(IAEA)にはワシントンから派遣された情報員が多数いる。IAEA内の査察機密情報が直ぐにワシントンに流れるのは当然だろう。

国連記者室には多くの情報機関エージェントがジャーナリストの名目で動いていた。当方が知り合いになったそれらのジャーナリストたちはそれぞれ個性があった。特にソ連出身のジャーナリストたちは寡黙な人間が多かった。余分な話は絶対にしない。話好きな中東出身のジャーナリストとはその点、好対照だ、規律正しく、あまり目立たない。記者会見でも質問しない。聞いているだけだ。記者会見後、主催者側が用意したコーヒーやお菓子には必ず顔を見せ、コーヒーを飲みながら聞きたい人間の傍にいく。

ロシア人記者の考え方、捉え方は欧米記者たちとはかなり違う。国連記者室には、国連工業開発機関(UNIDO)の元幹部だったが、定年退職後、記者室に机をみつけ、毎日、定時間に記者室に顔を見せて何か書いていた人物がいた。記者室の同僚たちから「教授」と呼ばれていた。元国連幹部だったら働かなくても食っていけるはずだが、教授は国連記者室が好きだった。教授が利用する机と椅子は通常の大きさで、教授にとって物足りないだろうと思ったが、「ここが一番落ち着けるよ」と言っていた。

元国連幹部で奥さんが元ソ連共産党幹部の娘さんだという「教授」はやはり物知りだった。当方は多くを教えてもらった。国連記者室が引越ししたこともあって、教授との付き合いはなくなった。もう1人の情報機関出身のロシア人記者がいた。彼とは時たま、記者会見で会うが、挨拶する程度でいつものように無駄口を発しない。典型的なエージェントだ。彼は定期的にドイツに飛ぶ。多分、ロシアの情報機関の欧州の拠点はドイツにあるのだろう。あるいは、ロシアがドイツ国内で何らかのオペレーションをする時、ドイツ以外に住んでいてドイツ語ができるエージェントが呼ばれるからかもしれない。

なぜ、突然、冷戦時代のソ連エージェントの話を書き出したかというと、世界を今震撼させているロシアのプーチン大統領がKGB情報機関出身者であるということもあって、ロシア人の気質、国民性を考えていたからだ。大げさにいえば、プーチン氏を含むロシア人のアイデンティティをもう少し知りたいと思っていたからだ。

ロシアは欧州からアジアまでの領土を誇っているが、ロシア人は民族的にみてヨーロッパ人でもアジア人でもない。地政学的にユーラシアに属すると主張する学者たちがいる。また、オスマン帝国の崩壊後、ギリシャ正教会を中心とした汎スラブ主義が飛び出してきたことがあった。ただ、プーチン大統領がそれらの哲学、イデオロギーに拘っているとは思わない。彼は1991年、失った大国ソ連の復興を願っているといわれる。今回のウクライナ危機でも「西側は1991年、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大をしないと約束したが、それを反故にしている」と批判する。ただし、ロシアの国境線でNATO加盟国と接している割合は全体の数パーセントにも満たず、NATOの東方拡大といったプーチン氏の批判は事実に当てはまらない。一種の被害妄想だ。

話はコソボ紛争時代に遡る。当時、セルビアのミロシェビッチ大統領はコソボ紛争で、連邦からの独立を求めたコソボ自治州のアルバニア系住民への弾圧を展開させたため、NATOは1999年3月、安保理の承認を得ずにユーゴ空爆を開始した。それ以来、セルビア人の反米主義が生まれた。一方、ミロシェビッチ政権が主導した民族政策は欧米の怒りを買い、反セルビア主義が欧州で定着していった。

同じことがロシアに対しても当てはまるだろう。ルッソフォビア(Russophobia、ロシア嫌い)だ。ルッソフォビアはロシアに対する恐怖と嫌悪感を抱くことで、今始まった現象ではない。歴史的なこともあってポーランドやバルト3国では反ロシア主義、ルッソフォビアが強い。ロシアが2014年、ウクライナのクリミア半島を武力併合して以来、そのルッソフォビアは欧州全土に広がっていった。プーチン大統領が強さを愛し、ソ連時代の大国の復興を願うのは欧米社会のルッソフォビアへの反発があるからかもしれない。

プーチン大統領が10万人以上の兵力をウクライナ東部国境沿いに動員し、ベラルーシまでその兵力を広げていることに対し、「プーチン氏はウクライナに武力侵攻する」といった懸念が生まれている。武力行使すればロシアは得る以上に失うほうが多い、というのが欧米専門家たちの一致した意見だ。欧米側はプーチン氏の狙いが読めないため、懸念し、不確かさが一層、欧米のルッソフォビアを強めている。正体が分からないと、人は不安となり、攻撃的な人ならば嫌悪感を抱くものだ。

バイデン米大統領はプーチン大統領と会談する用意があるという。24日には米ロ外相会談が予定されている。ひょっとしたら、ウクライナ危機で武力衝突を回避できる最後のチャンスかもしれない。「孫氏の兵法」には「彼(この場合、プーチン氏)を知り、己を知れば百戦危うからず」という格言がある。欧米側は偏見を捨て、プーチン氏の世界をより理解する必要がある。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年2月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。