量子技術をめぐる米中覇権争いと日本

新田 英之

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量子技術とは、量子力学という物理法則を利用し原子、電子、光子などの挙動を制御することにより、既存の技術がもつ精度や性能をはるかに凌駕する通信や演算、計測を実現する可能性を秘めた技術である。そのため、次世代の経済・産業のみならず、安全保障や大国間の覇権争いにも影響を与える可能性を有している。量子コンピューティングによる機密情報の解読リスク、量子ナビゲーションによる潜水艦のGPSからの依存脱却等が挙げられる。

量子力学を利用した技術は、長年にわたり基礎から応用まで地道な研究が行われてきたが、特に軍事面での大きな可能性が現実的となった近年、先進主要各国がその研究開発に巨額の予算を投じ、技術的優位を競い合うようになった(参考)。

現在の先端技術の多くの分野では、論文や特許の数と質で見る限り、米国と中国の2大国がしのぎを削っているといえる。量子技術と共に、次世代の覇権争いで鍵となる人工知能(AI)技術においては、米国防総省最高ソフトウェア責任者が「アメリカは人工知能(AI)技術の開発競争で中国に敗れた」、「今後数十年のうちに数多くの分野、特にAIと生物工学で、中国は世界の覇権を握るだろう」、「もう勝負はついている」との見方を示し、引責辞任している(参考)。

量子技術においても、中国の指導者達がその経済的・軍事的重要性を認識し、戦略的にこの分野の人材を積極的に育成しながら莫大な資金を投資してきた。

2006年に発表された中華人民共和国初の本格的な科学技術中長期政策である「国家中長期科学技術発展計画綱要(2006~2020年)」の中で、既に情報・通信分野における重要な技術として「量子制御」を挙げている(参考)。また、軍民融合戦略に基づくデュアルユース研究はもとより、公的軍事機関とアカデミアとの連携による量子技術の軍事応用研究も進めている。

2016年に世界初の量子通信衛星である墨子号を打ち上げ、2017年には北京と上海を結ぶ2000km以上の規模を誇る量子通信幹線ネットワークを構築した(参考)。これら大型インフラ構築により社会実装に関わるノウハウの蓄積が進んでいるとみられ、量子通信技術領域における中国の台頭が示された。その後も、主に量子通信と量子コンピューティングを中心に巨大プロジェクトを進めている。

仮に中国がこれらの技術開発で成果を挙げ、人的資本と製造基盤とが合わされば、次の産業革命を触発する可能性をもつ量子技術におけるグローバルリーダーとなり、その地位を維持する可能性がある。

「中国は技術をコピーはするが、自主的にイノベートできないという認識は時代遅れであり、当分野における中国の成長、投資スケール、長期的計画の着実な実行を過小評価することは危険である」、「米国がこの分野で中国の競争相手であり続けるためには2倍の努力をしないといけない」、「米国は歴史上はじめて、技術的優位について、本当の脅威(real dangers)にさらされている」と米国の安全保障問題を扱うシンクタンク、新アメリカ安全保障センター(Center for a New American Security, CNAS)が報告書で述べている(参考)。

米国は中国という戦略的な競合が、秘密裡にこれらの技術を用いたシステム等を予想以上に早く実現し、米国の裏をかく可能性と向き合わなければならない。米国は技術力での敗北により軍事的優位を揺るがされるという、歴史上はじめての危機に向き合っているといえる。

我が国に目を向けると、研究を担う人材が圧倒的に不足しているにも関わらず、日本政府が2020年に掲げた「量子技術イノベーション戦略」では人材育成の優先順位は最下位である。また、日本政府の基礎研究を軽視し短期間でイノベーションを狙う姿勢では、大きな成果にはつながらないとの専門家の意見もある。

近年、科学技術の多くの領域で日本の国際的プレゼンス低下が著しい。近い将来、国際競争力・経済力、ひいては安全保障面でも大きな危機を迎えることも想定しておくべきなのかもしれない。

新田 英之
東大工学部卒、工学博士。パリ(仏)に2度、ボストン(米)に3度在住。日仏米の研究機関・大学で研究員・教員を務めた後、民間企業等に在籍。科学技術分野の文部科学大臣表彰等多数受賞。