Redefinition fallacy
自説に都合よく言葉を再定義して前提にする
<説明>
「再定義の誤謬」とは、論者が前提となる言説に用いられている言葉を再定義して新たな結論を導くものです。すなわち、マニピュレーターは、特定の言葉に対して自分に好都合な定義を与えることで前提を歪め、自分に好都合な結論を導くのです。
概念Cの本来の定義はDtrueである。
論者Aの論調にDtrueは不都合である。
ここに論者Aは概念Cの定義をDfalseであると主張する。
<例>
A:出版社は多くの人に出版物を買ってもらう組織だ。
B:違うね。出版社は多くの人に出版物を読んでもらう組織だ。したがって、本屋で出版物を立ち読みすることは適正な行為だ。
出版社はコストをかけて制作する出版物を商品として営利事業を行う企業であるので、「出版社は多くの人に出版物を買ってもらう組織」というのは、主語(出版社)に含まれている概念から述語(出版物を買ってもらう組織である)を導く【分析的判断 analytic judgement】に基づく適正な【定義 difinition】です。一方、出版社は慈善事業を行う組織とは限らないので「出版社は多くの人に出版物を読んでもらう組織」というのは、主語(出版社)に含まれていない概念から述語(出版物を読んでもらう組織である)を導く【総合的判断 synthetic judgement】に基づく定義です。適正な分析的判断に基づく定義が【本質 entity】であるのに対し、総合的判断に基づく定義は基本的に個人の【主張 assertion】であると言えます。上記の例において、Bは本質的な定義を個人の主張で再定義することで、本質的な定義からは導くことができない結論を得ています。これを「再定義の誤謬」と言います。
また、総合的判断に基づいた既往の自分の主張に対し、それとは矛盾する新たな総合的判断に基づく主張を前提にして新たな結論を導くのも「再定義の誤謬」です。ただし、前言を自らが誤りと認めて撤回する場合には、それは「再定義の誤謬」ではなく、通常の「訂正」に他なりません。
なお、他者が主張した総合的判断に基づく言説に対し、それとは矛盾する新たな総合的判断に基づく主張を前提にして新たな結論を導くのは「再定義の誤謬」ではなく、通常の「議論」です。
<事例1>原子力
<事例1a>朝日新聞 2011/07/31
女優の吉永小百合さんが広島国際会議場であった原爆詩の朗読会で、福島第一原発の事故に触れ「原子力発電所がなくなってほしい」とあいさつした。(中略)吉永さんは朗読前のあいさつで「原子力の平和利用という言葉を、今まであいまいに受け止めてしまっていた。もんじゅが恐ろしいことは聞き、廃炉に向けた運動はしていたが、普通の原子力についてもっともっと知っておくべきだった」と話した。
<事例1b>鳥越俊太郎東京都知事候補個人演説会 2016/07/19
鳥越俊太郎氏:私は最初にやる仕事は、東京を非核宣言都市。残念ながら東京は、平和都市宣言はしているが、非核都市宣言はしていない。従って私は東京こそ、非核都市、核はいらない。核というのは広島、長崎の原爆だけではありませんよ。福島でも核はあったんですよ。福島の核もいらない、つまり原発もいらない。
吉永氏と鳥越氏は、いずれも【原子爆弾 atomic bomb】を引き合いに出して、その爆発の源である【原子力 nuclear energy】を有害な絶対悪であると暗に定義することで、原子力を利用した【原子力発電所 nuclear power plant】の廃絶を求める結論を導いています。
ここで、原子力とは原子核の核分裂反応によって放出されるエネルギーです。原子爆弾は人間の殺傷やインフラの破壊を目的とした大量破壊兵器であることから、分析的判断で有害であると定義できますが、原子力発電所は、単位発電量に対する経済負荷・環境負荷・安全負荷が小さい発電技術であり、分析的判断では有害であると定義できません。つまり、この事例で吉永氏と鳥越氏が原子力発電所を有害であると認定しているのは、分析的判断による定義」に見せかけた個人の総合的判断による主張に他ならないと言えます。
ちなみに、この事例の主張は、刃物がしばしば犯罪に用いられることを引き合いに出して料理包丁の廃止を求めるのと同様の乱暴な論証です。
<事例2>秘密会
<事例2>衆・議院運営委員会 2014/06/12
佐々木憲昭議員(共産党):国会の活動というのは、本来、国民の見えるところで行うというのが当然のことであります。そうじゃないと意味がない、何のために活動しているのか。この秘密会が常設されると、その状況が変わってくるわけですよ。(中略)。我々としては、今議論してきましたけれども、こんなものはつくる必要がないというふうに思いますので、そのことを申し上げておきたいと思います。
特定秘密保護法案の審議において、佐々木議員は総合的判断に基づき「国会の活動」を「国会の活動は国民の見えるところで行うもの」と定義し、秘密会の常設に反対しました。しかしながら、国会における秘密会の開催は憲法57条で保証されています。秘密会は、憲法に対する分析的判断に基づけば、国家秘密の保護だけではなく、議論の当事者の人権の確保などのために必要な制度なのです。佐々木議員は、国会議員に課された憲法尊重擁護義務に対して明確に違反する形で「国会の活動」という言葉を再定義したと言えます。
<事例3>人流
<事例3a>東京新聞 2021/06/18
◆尾身氏ら提言を大会組織委に提出 東京五輪は「無観客開催が望ましい」
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長ら専門家有志は18日、東京五輪・パラリンピックについて「無観客開催は、会場内の感染拡大リスクが最も低く、望ましい」とする提言をまとめ、政府と大会組織委に提出した。
提言では、五輪が夏休みやお盆に重なるため、大会開催を契機とした感染拡大や医療ひっ迫のリスクがあると指摘。緊急事態宣言中にもかかわらず、首都圏では既に人流が増加の一途をたどっていることから、「ワクチン接種が順調に進んだとしても、7月から8月にかけて感染者および重症者の再増加がみられる可能性がある」と強調した。
感染症の流行は、感染者数の増加または減少の速度である「新規陽性者数」、感染者数の増加または減少の加速度である「実効再生産数」によって評価することができます。このうち、感染防止策の観点から最も注目するに値するのは、実効再生産数の値です。なぜなら、アクセルを踏めば速度が増加し、ブレイキを踏めば速度が減少するように、実効再生産数が増加している場合には感染拡大力が高まっている(アクセルが踏まれている)ことを示し、実効再生産数が減少している場合には感染抑止力が高まっている(ブレイキが踏まれている)ことを示すからです。すなわち、感染拡大に向かって力が働いているか、あるいは感染縮小に向かって力が働いているかは実効再生産数の増減で判定できるのです。
さて、日本のコロナ第1波~第4波において、人流と実効再生産数の相互相関が特定の時間遅れで高まることはなく、必ずしも人流が感染を縮小する主要な力になっていないことがこの2021年6月18日の時点で既に判明していました。しかしながら、日本の感染症の専門家は根拠薄弱に「人流抑制」こそが感染対策であると断じ、東京五輪の無観客開催を政府に求めました。この提言を受けたのか、結局東京五輪は無観客で開催されるに至りました。
ここに、実際の東京五輪開催前後における感染状況ですが、発症ベースの実効再生産数は東京五輪開幕前から閉幕まで継続して減少を続けました。この時点で新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身会長は次のように述べています。
<事例3b>日本経済新聞 2021/08/12
◆尾身氏「人流の意味で人々の意識に影響」 五輪巡り見解
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身会長は12日、8日に閉幕した東京五輪の開催による足元の感染拡大への影響について問われ「絶対ないと思う」と否定した。一方で「人流という意味で、オリンピックの開催が人々の意識に与えた影響の議論でいえば、私たちはあったと思う」と述べた。(中略)
急増する感染者数について尾身氏は「今の感染拡大はオリンピック開催前から(感染者数を)上げる要素がたくさんあり、それが起きたということだ」と指摘した。感染力が高いインド型(デルタ型)の広がりや、4連休、お盆休みなどの人流増加の影響が大きいと指摘した。
東京五輪の期間中、人流は明らかに抑制されましたが(図-1)、なんと尾身会長は「人流の意味で五輪が影響を与えた」という支離滅裂な憶測発言をしたのです。
図-1 時間帯別主要繁華街滞留人口の比別推移(厚労省)
また、識者と呼ばれる人物は、データなど見てもいないのか「人流が減るわけないのは首相の言葉が国民に響かないため」なる支離滅裂な主張で日本社会を混乱させました。
<事例3c>JBpress 2021/08/14
◆【舛添直言】なぜ菅首相の「言葉」は国民の胸に響かないのか
原稿棒読みで気持ちこもらぬ言葉、これじゃ人流減るわけない
東京五輪が閉幕した。アメリカのバイデン大統領から大会の「成功」を祝福された菅義偉首相だが、菅内閣の支持率は最低を更新し続けている。
最大の理由は、もちろん、新型コロナウイルスの感染が拡大の一途を辿っていること。さらに言えば、この難局において首相が国民に向けて、意味あるメッセージをなんら発せていないことに対する大きな失望がある。
気持ちが込められているように思えないから首相に反発するなど、本末転倒も甚だしい思い上がった愚者の勘違いに他なりません。
さらに尾身会長は、精緻な科学的根拠もなく、日本の経済活動を徹底的に破壊した2020年春の人流抑制をもう一度行う必要があると日本社会に呼びかけました。
<事例3d>朝日新聞 2021/08/22
◆尾身氏、人流減「もう少し強くやる必要」昨春並み求める
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は22日、NHKの討論番組で、「人流、あるいは人々の接触の機会を(減らす対策を)いま一歩、もう少し強くやる必要がある」と述べ、踏み込んだ措置の必要性を訴えた。
新型コロナの爆発的な感染拡大について、尾身氏は「今までやってきたものよりもう少し強い対策を打たないと、(病床の逼迫が)大変なことになる」と指摘。人との接触の8割減や、幅広い業種への休業を求めた昨春の緊急事態宣言を「イメージ」として挙げ、「そういうことがもう求められている」と語った。
しかしながら、この発言以降に現実社会で思いがけないことが起こります。尾身会長の人流抑制の呼びかけとは正反対に盆明けから人流は増加し、逆に新規陽性者数は急激に減少したのです。この事実から人流と感染の拡大・縮小は無関係であることが証明されたものと言えます。この現象に対し、尾身会長は次のようにコメントしています。
<事例3e>Yahoo!ニュース・オリジナル 2021/09/28
◆第5波”はなぜ急激に減少したのか 尾身会長が語った5つの要素
尾身会長が示したのは(1)一般市民の感染対策強化(2)人流、特に夜間の滞留人口減少(3)ワクチン接種率の向上(4)医療機関・高齢者施設での感染者の減少(5)気象の要因――の5要素。
(1)は、あまりの急激な感染拡大と医療提供体制のひっ迫を目の当たりにした人々の間で危機感が醸成されたのではないかというもの。
(2)は、繁華街における夜間の滞留人口が「感染の推移と比較的明確に相関することが分かって(いる)」からだという。尾身会長らも、宣言発出前に比べて5割減とするよう呼び掛けてきた。「残念ながら5割には達しなかったけど、6週間以上、20%~35%くらいの減少。かなり低いレベルに維持された」と語り、感染状況の改善につながった可能性があると説明した。
一連の尾身会長の発言のうち、特に注目する必要があるのは(2)の発言です。尾身会長が2021年8月22日に訴えた「人流抑制」は国民全員を対象としたものでしたが、ここでは「人流」を再定義し「繁華街における夜間の滞留人口」としています。まさに尾身会長の言葉通りの徹底的な人流抑制を政府が行っていたら、日本は無駄に莫大な国富を失ったことは自明です。
さらに言えば、過去の人流抑制も実際にはほとんど意味がなかった可能性があります。感染症の専門家は、人流と実効再生産数はマクロに関係があるかのように主張してきましたが、時間遅れは全体を通して見れば、まさにバラバラです。マクロに関係があるかのように見えるのは、感染縮小の場面で緊急事態宣言を不必要に行ったことによって無駄に人流を抑制したためである可能性が大いに考えられます。
さて、現在において尾身会長は、感染対策を「人流抑制」から「人数制限」に再定義しています。
<事例3f>東京新聞 2021/06/18
◆尾身氏「ステイホームなんて必要ない」 人流抑制より人数制限を重視
政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長は19日、コロナ対策を繁華街への人出を減らす「人流抑制」から、飲食店などの「人数制限」へシフトすべきだとの考えを示した。専門家による「基本的対処方針分科会」後に記者団に語った。
専門家らは昨年の「第5波」の際には、人流抑制を主張していた。この日、尾身氏は「今までやってきた対策を踏襲するのではなく、オミクロン株の特徴にあったメリハリのついた効果的な対策が重要だ」と主張。「『人流抑制』ではなく、『人数制限』が一つのキーワードになる」との考えを示した。「今回は何でもやめるという、ステイホームなんて必要ないと思う。リスクの高いところに集中して、みんなで気をつけるということだ」とも語った。
まさに「人数制限」は、過去の発言と矛盾した総合的判断に基づく再定義であると言えます。このように、日本のコロナ禍では、専門家やワイドショーやコロナ脳や反コロナ脳による誤った総合的判断に基づくデマが飛び交いました。けっして誤りを訂正することなく、「再定義の誤謬」で主張をコロコロ変える彼らの無責任な態度こそが、日本社会を破壊したと言えます。
情報操作と詭弁 > 論点の誤謬 > 論点歪曲 > 再定義の誤謬
☆★☆★☆★☆★
公式サイト:藤原かずえのメディア・リテラシー